イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存から存在へ:『存在と時間』の根本課題

 
 〈ひと〉と頽落の概念の検討を通して、私たちは、『存在と時間』が向き合っている根本問題に到達することになる。
 
 
 論点:
 『存在と時間』において、存在の意味への問いは、現存在、すなわち人間が実存することの問いへと収斂してゆく。
 
 
 存在することの、〈ある〉ことの意味を根本から問い直す。それが、1927年に公刊された『存在と時間』が提起した根本の課題であった。『存在と時間』において、この課題は、人間の実存を問うことへと収斂してゆく。〈ある〉を問うことはいわば、人間としての〈わたしはある〉を問うことにおいて突き詰められてゆくのである。
 
 
 次のような疑問も、生じるかもしれない。世界が、あるいは、世界内の存在者が存在することはどうなのか。丘の上に立つ木は、それを見てとるわたしとは関係なく存在し、ニュートンの法則は、人間が存在しなくとも妥当するのではないのか。〈ある〉を問うことが人間の実存の問いに収斂してゆくのだと、どうして言えるのか。
 
 
 『存在と時間』においての答えは、以下のようになる。現存在である人間こそは、覆いをとって発見することによって、世界そのものを開示するところの比類のない存在者なのである。したがって、丘の上に立っているあの木が〈ある〉ことの意味は、その〈ある〉を開示するところのわたしのあり方を、すなわち、一人の人間であるところのわたしの存在の仕方を問うことを通してはじめて解明されることであろう。ニュートンの法則について言うならば、かの法則は、覆いをとって発見する人間が存在するからこそ「真である」と言えるのである。
 
 
 こうして、〈ある〉の問い、そして、〈ある〉を開示することの真理の問いは『存在と時間』においては、人間という深淵を問うことへと帰着してゆくのである。すでに述べたように、ハイデッガーは後にこうした着想からは距離を置くようになるが、それは、この本の探求が無駄になったからではない。彼の後年の思索は、この本の成果をもとにしてはじめて、その必然性を理解しうるものとなることだろう。そして、哲学の問いとして人間という深淵を問うことは、2021年を生きている今日の私たちにとっても、第一級の重要な問いであり続けているのである。
 
 
 
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 このような観点のもとに立つとき、〈ひと〉と頽落の機構が提起する問題は、哲学の営みそのものにとって無視することのできない重大な問題として迫ってくることになるのではないか。
 
 
 「現存在は真理のうちに存在するのと等根源的に、非真理のうちにも存在している。」わたしが〈ひと〉の支配に身を委ねることによって、わたしの「覆いをとって発見すること」は避けようもなく変質させられてしまう。このことは、世界そのものが、ひいては〈ある〉の意味そのものが覆い隠されてしまうことを意味する。頽落は、存在するということの意味に対する忘却を引き起こさずにはおかないのである。哲学が〈ある〉の問いを忘れ去っていることの根源には、〈ひと〉のあり方のうちで自己を見失い、世界へと頽落してゆく人間存在の宿命が深く関わっているに違いない。これが、『存在と時間』を書いた時期におけるハイデッガーの見立てであった。
 
 
 「わたしは誰でもない〈ひと〉として生きるのか、それとも、わたし自身の最も固有な存在可能を生きるのか。」今やこの問いは、この問いを問う哲学者個人の実存を越えて問わねばならない、哲学の最重要の問いとなる。なぜならば、この問いにはそれを問う一人の人間の生のみならず、〈ある〉ことそのものの意味という、哲学の根源それ自体もまた賭けられていることになるからである。
 
 
 〈わたしはある〉の根源を問うことが、存在の意味を開示する。存在の問いは、それを突き詰める中で実存の問いへと収斂してゆくのであって、逆に、実存することの根源が開示された時にこそ、その根源の方から遡って〈ある〉 の意味が私たちに示されるであろう(その時、存在することの意味の地平として、時間そのものがあらわになるのであろうか)。だからこそ、頽落の傾向から身を引き離し、「わたし自身」という比類のない彗星を掴みとることが、存在の問いを問うている哲学者自身のみならず、二千年にわたる哲学の営みそのものにとっても喫緊の課題として迫ってくることになるのである。壮大というか、なんとも破天荒かつ大仰と言えなくもない問題設定であるが、この辺りの思考のダイナミズムが『存在と時間』の、そして、ハイデッガーという哲学者の最大の魅力の一つである。問いの大きさに敬意を払いつつ、さらに議論をたどってみることとしたい。