イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「その時、世界とは生そのものであろう」:『存在と時間』における「理解」の概念

 
 世界における物、あるいは道具のあり方について改めて考えなおすところから、『存在と時間』で語られている「理解」という現存在(人間)のあり方に迫ってみることにしよう。
 
 
 たとえば、椅子である。日常生活の中で、私たちは椅子を単なる物体の塊として経験するわけではもちろんない。言うまでもなく、椅子は「座るべきもの」として経験されるのであって、椅子という存在者が人間に開示されるとは、まさにその椅子が椅子として、「座るべきもの」として開示されることを言うのである。
 
 
 この事態を人間の側に焦点を当てつつ、さらに掘り下げてみよう。椅子が椅子として開示されうるのは、「座る」という人間の存在可能性があるからである。座ろうか、座るまいかと意識して考えるよりも前に、人間は「座る」という自らの存在可能とともに現実に存在してしまっており、椅子が「座るべきもの」としての意味を持つのは、この存在可能との相関においてのことであるといえる。
 
 
 このことは、街の路地であろうと、駅の改札であろうと、あるいはコーヒーカップや靴であろうと、人間の世界を構成しているあらゆる存在者について当てはまるであろう。このように人間は、物あるいは道具との関わり方が「わかる」(=関わることが「できる」)という仕方で世界のうちに存在してしまっているのであって、この存在のあり方をこそハイデッガーは「理解」と名づけるのである。
 
 
 このような意味で語られる「理解」は、通常の意味で語られる「理解」よりも奥深いところから、人間が人間であることを、人間の〈現〉を構成するものであることは確かである。人間はわざわざ、椅子を見て「椅子だとわかった」と明示的に思う必要はない。そんなことを考えるよりも前に「座るべきもの」としての椅子のあり方を「わかってしまっている」というのが、人間が人間として存在するあり方なのである。
 
 
 
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 この「理解」の概念は『存在と時間』において根本的に重要な役割を果たしているので、この論点からは、さまざまな帰結を引き出しておかなくてはならない。まずは、世界は「理解」との関係に基づいて開示されるものである、という点から考えてみることにしよう。
 
 
 世界はわたしの存在可能性、すなわち、わたしのなしうることに基づいて開示される。すなわち、わたしはたとえば、こう思うこともあるかもしれない。今日は何もかも放り出して、いつか行った、あの大きな公園の池のほとりでただ緑を眺めていることにしようか。このような開示は、駅まで歩くこと、電車に乗ること、真っ青な空を背にして風に揺られている木々を眺めることといった、わたしの存在可能性との関わりなしでは行われえない。世界がどのような場所であるのか、と問うことはある意味で、わたしが何をなしうる存在者であるかを問うことに等しいのだ。わたしがわたし自身の可能性であるからこそ、世界は世界自身の可能性として、わたしに開示されるのである(「わたしを縛りつけているものから自由になって、少しでも遠くに行けば山や海や風が限りなく広がっているであろうところの、このたった一つの世界」)。
 
 
 ハイデッガーのいう「理解」が指し示すのは従って、理論的な認識としての「理解」ではなく、むしろ、わたしが生きているという事実そのものである。生きている限り、わたしはわたし自身の存在可能として活動し続ける。わたしが死ぬ時には「世界とは何か」という問いに対して、わたしなりの答えが出ていることだろう。その時、世界とはわたしの生そのものであろう。わたしはひょっとしたらその時、最後にもう一度だけ水と緑が見たいと思うかもしれない。見ることは、人間を人間たらしめている可能性の中でも最も深い存在可能をなすものであり、世界はこの行為を通してこそ、最後にもう一度だけ垣間見られるのであってみれば……。