イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス

 
 私たちはこれまで、「死へと関わる存在」の日常的なあり方について見てきた。今や、ここから遡って死の実存論的概念を完成させることによって、「死へと関わる本来的な存在」の方へと進んでゆくための準備を完了させる時である。
 
 
 これまでの分析において、死の可能性はすでに、「①最も固有な②関連を欠いた③追い越すことのできない可能性」として露呈されていた(この点については、12月2日付の記事を参照されたい)。日常性における人間存在のあり方を振り返りつつ、ここに次の二つの規定が付け加えられることによって、この可能性の画定がようやく完了し、私たちの目の前には、「死の実存論的概念」の完全な形が浮かび上がってくることになる。
 
 
 ④ 死の可能性とは、「確実な可能性」である。〈ひと〉はたとえば、「人間、誰もがいつかは死ぬものだ」と折に触れて口にしており、この意味では日常性なるものも確かに、死の確実性を承認しているようには見える。ただし、この承認は実はきわめて曖昧な承認であると言わざるをえないのであって、本当は「人間、いつかは死ぬけれども、さしあたり今はそのことを気にかける必要はない」という、一種の「逃避しながらの承認」なのである。日常性は、このような「それとなく避けること」によって構成されているということだ。
 
 
 実存論的分析は、日常性が避けようとしているこの規定を、いわば正面から引き受け直す。「人間、いつかは死ぬものだ」は本当は、「人間は、いつかは必ず死ぬ。従って、他の誰でもない一人の人間であるわたしもまた、いつの日か確実に死ぬ」なのである。
 
 
 ハイデッガーによる死の可能性についての分析の後半部はこのように、〈ひと〉が死に向き合うことを避けている、その避け方を綿密に探ってゆくことによって、逆に避けられようとしている当の可能性を明るみのもとにもたらすという、きわめて曲がりくねった道のりをたどることになる。この意味では、私たちは次のように言うこともできるかもしれない。哲学とは、誰でもない〈ひと〉として生きることによって、おのれ自身の最も固有な存在可能に向き合うことを避けようとしている自分自身との、絶えざる自己対話なのである。わたしが全実存を賭けて戦うべきは、無数の匿名の人々などではない。哲学の戦いはまずもって、わたし自身のうちに巣食ってわたしを「誰でもないこと」のうちに引きとどめようとしている、わたし自身の内なる〈ひと〉に対して行われなければならないのである。
 
 
 
死へと関わる存在 可能性 実存 ハイデッガー 徒然草 気づかい ドクサ 自己への配慮
 
 
 
 ⑤ 死の可能性は、「未規定的な可能性」である。上で見たように、〈ひと〉は「当分はまだ、死のことを気にかける必要はない」と自分に言い聞かせることで、死の可能性に向き合うことを避けていた。そして、実存論的分析はこの「それとして避けること」を改めて正面から引き受け直すことによって、かえってその避けられている当の可能性の方へと向き直ることを、自らの務めとするものに他ならないのだった。
 
 
 そうであるならば、この「当分はまだ」の真実の姿は、「いつでもやって来る」であるということにならざるをえないのではないだろうか。前回の記事で見た、『徒然草』の作者である吉田兼好は、「私たちに死という出来事がやって来るのは、たった今のことかもしれない」と人々に語っていた(「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん」)。死ぬこととはおそらく、いつか、はるか先にやって来る出来事として、当座のところは放置しておいてもよい可能性などではない。むしろ死は、たった今のこの瞬間にもやって来るかもしれない「可能性の中の可能性」として、現存在であるわたしに対して、いついかなる時にも差し迫り続けているのである、ということになる。
 
 
 かくして、以上の①から⑤の規定をもって、実存論的分析は、死の完全な実存論的概念を獲得したことになる。すなわち、死の可能性とは現存在である人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実な、それでいて未規定的な可能性」に他ならないのである。
 
 
 このように、ハイデッガーの死についての分析は「陰気な世界逃避」などでは全くなくて、この分析はその根底においては、「自分自身の存在に正面から向き合う」という試みへの、絶えざる立ち向かいなのであると言ってよい。すなわち、哲学の営みとはその本質において、思惟するという行為を通して行われる、不断の自己鍛錬に他ならないのである。それは、自分自身がこれまでずっと向き合うことを避けていたものに対峙することをも辞さず、「わたしにはひょっとしたら、今までとは別の仕方で考えてみることも可能なのではないか?」と自分自身に問いかけてみることをあえて厭わないという意味では、まさしく果敢にして仮借なき「気づかい Sorge=自己への配慮 Souci de soi」の究極の姿を指し示すものであるとも言えるであろう(内なる〈ドクサ〉との飽くなき闘いとしての哲学)。私たちは分析の歩みのうちで獲得したこの成果を踏まえた上で、「死へと関わる本来的な存在」の可能性を問うという次の課題の方へと歩みを進めてゆくこととしたい。