イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「人間は、木や石ではないのであってみれば……。」:『徒然草』の著者が伝えたかったこと

 
 「死へと関わる存在」の日常的なあり方という問題についてはもう少しだけ、一つのテクストを参照しつつ考えておくことにしたい。この論点を掘り下げるにあたっては、『徒然草』第41段で語られているエピソードが教えてくれることは少なくないように思われるのである。今回の記事では、この箇所が私たちに対して提示している実例を通して、目下の問題にアプローチしてみることとしたい。
 
 
 ある年、昔で言えば夏の始まりの時期ともされる五月五日に、『徒然草』の著者である吉田兼好は、上賀茂神社で行われる競べ馬(くらべうま)の行事を見物に出かけた。そこには、すでに多くの人々がこの催し物を見るために集まっていて、よい場所まではなかなかたどり着けそうにない。
 
 
 ふと兼好が、向こう側に立っている大きな木を眺めると、そこには一人の法師が、上の方まで登ったところに腰かけている。彼はどうやら、少し注意の足りないうっかり者のようで、高い所にいて危ないというのに、こっくりと揺れながら眠りかけ、また起きては眠りかけるというのを繰り返していた。
 
 
 見ていた人々の中の一人が、「なんという愚か者だろう!あんな危険な枝の上で、よくも安心して眠れるものだ」と言った。実際それは、見ていた他の人々も思わずくすくす笑いをこぼさずにはいられないような、ほのぼのとした光景ではあったのだろう。しかし、ふとある考えが頭によぎってきた兼好は、自分の心に浮かんできたままに、人々に向かって次のように言ったのである。
 
 
 「しかし皆さん、改めて考えてみると、私たち人間が死ぬのはずっと先のことではなく、今すぐのことかもしれない。それにも関わらず、そのことを忘れて、私たちはこうして物見遊山に出かけたりして、日々を過ごしている。その愚かさは、本当は、あのうっかり者の法師に勝るとも劣らないものであるのかもしれません。」
 
 
 すると、意外なことが起こった。まわりにいた人々は、「この人は、何を言っているのだ?」と戸惑ったり、あるいは反感を抱いたりする代わりに、はっと気づかされたように「いやいや、考えてみれば、確かにその通りですね」と皆で言い合って、兼好の言葉に賛同したのである。それで、前の方にいた人々が「さあ、ここに来てください」と彼のために場所を空けてくれたのであったと『徒然草』には記されているが、兼好の言葉に対して人々が思いがけず感じ入ったというところが、この第41段の要点である。このエピソードからは、「日常性における『死へと関わる存在』」という私たちの目下の探求の主題について、小からぬことを学ぶことができると言えるのではないか。
 
 
 
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 すでに見たように、実存カテゴリーとしての〈ひと〉とは、日常性における実存の様態を規定しているある種のフォーマットなのであって、特定の人々だけに帰属する、固定した属性のようなものではない。一方には、本来的な実存を生きている「選ばれた人々」がいて、他方には、いつまでも非本来性のうちにとどまり続ける「頽落した人々」がいるという風に考えるべきではなくて、すべての人間は、常に実存の本来性と非本来性という二つの可能性の間で揺れ動きながら実存しているというのが、この主題に関する実情なのではないかと思われるのである。
 
 
 これは非常に重要な論点なのではないかと思うのだが、私たち人間は誰でも、実存には本来的な実存とそうでないものがあるという点についての理解を、必ず持っている。この理解は、多くの場合にはそれほど明確なものにはなっていないかもしれないし、またある場合には、「本来的な生き方」について語ったり、それを追い求めたりすることに対する軽蔑、あるいは憎悪といった形を取っていることもあるかもしれない。それでも、ハイデッガーが語っているような「実存の本来性」や、実存カテゴリーとしての〈ひと〉といった主題については、本当はこの世で生きている誰もが、こうした主題をめぐるさまざまな事情を(いかに漠然とした仕方ではあれ)理解していると言えるのではないだろうか。
 
 
 兼好が語っている「賀茂の競べ馬」のエピソードの方に立ち戻るならば、見物に来ていた人々も、おぼろげながら自分で分かっていたのである。私たちは、気晴らしをしている。一つには、この世で生きてゆく上では、全てが嫌になってしまうような出来事も沢山あるから、しかしまた、たとえそのような悩みや苦しみがないとしても、重くて苦しいようなことは考えたりしたくないから。だからこそ、彼らは兼好の語った言葉に対して、意外にもすんなりと反応したのである。いやあ、そうなんですよね。本当は、生きるとか死ぬとか、そういうことを真面目に考えるのって大事なことなんだって、わかってるんです。たまに今みたいなことを言われると、確かに、改めて考えさせられますね。
 
 
 「人間は木や石ではないのだから、時には、ものに感ずるようなことがないわけではない。」『徒然草』の第41段を締めくくるにあたって、兼好はこのような文章を書きつけている。おそらくは、吉田兼好という人自身もまた、時には物見遊山にも出かけたりもするし、出かけたその先で、人間としての本当の生き方について思わず考え込んでしまったりすることもある、真面目で普通な人の一員だったのだろう。哲学の言葉は、日常のうちで今にも眠りこもうとしている私たちに向かって、静かに語りかける。兼好の言う通り、私たち人間存在は木や石ではないのであってみれば、一本の考える葦として、時にはものに感ずることがないわけではないのである。