イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」:ブレーズ・パスカルは彼の読者に対して、「賭けることへの被投」の問題を提起する

 
 2022年の現在を生きている私たちにとって、思索者としてのパスカルが提起したさまざまなイデーは一体、どのような意味を持っているのだろうか。ここから数回の記事では、「賭け」に関する『パンセ』の議論の検討を通して、『存在と時間』の思考の可能性をさらに突き詰めるという作業に取りかかることとしたい。
 
 
 論点:
 「実存とは賭けである」という存在論的なテーゼは、現存在である人間が置かれているところの「賭けることへの被投」という実存論的状況を露わにせずにはおかない。
 
 
 パスカルの議論を再構成してみる。彼によるならば、私たち人間存在はみな「神は存在するか、それとも、存在しないのか?」という究極の二者択一を問いかけられる中で実存している。彼の言葉を借りるならば、これはいわゆる「賭け」に属する問題なのであって、この問いに対して「理論的な観点からして絶対に間違いのない答え」を出すことは、人間には不可能なのである。一人一人の人間はそれぞれ、どちらかの選択肢に自らの実存そのものを賭け、無限の果てで表が出るか、裏が出るのだ。
 
 
 この話を耳にした時に多くの人の頭の中に思い浮かんでくるのはおそらく、「そんな不確実な賭けなどは、最初からプレイすべきではないのではないのか?」という疑問なのではないかと思われる。しかし、パスカルによるならば、私たち人間存在は、いつまでもそういう姿勢を取り続けるわけにもゆかないのである。彼は、次のように言っている。
 
 
 「そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より。強調部分は引用者による)
 
 
 ハイデッガーによる「死への先駆」の議論を思い起こしつつ整理してみるならば、問題はこうなる。すなわち、私たち人間はいずれにせよいつの日か、確実に死ぬという運命にさらされているのであってみれば、「(「永遠の命」なる法外なものを与えうる唯一の存在であるところの)神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という賭けに避けようもなく巻き込まれてしまっているので、一人一人の人間はどうしても、表か裏かのどちらかに賭けなければならない。現存在であるわたしは自らの「全体的存在可能」、すなわち、「生の可能性の全体」に向き合わされることのうちで、どうしても「わたしは『本来的なわたし自身』になることを望むのか、それとも、望まないのか?」という賭けのどちらかの選択肢に全額を投入しなければならない。わたしは、このような「死に物狂いの一番勝負」の状況のうちに、常にすでに、避けようもなく投げ込まれてしまっていると言わざるをえないのである(ここには、「被投性」なる規定が抱え持っている深淵が、覆い隠しようもなく露呈されていると言えるのではないだろうか)
 
 
 
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 このように、「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」というパスカルの言葉は、三百年後に哲学の世界で「被投性」と呼ばれることになる論点を先取りしており、非常に力強いものである。しかし、この言葉はそれにとどまることなく、2022年の現在を生きている私たちに対しても、「賭け」なるものの本質をまさしく「未曾有のもの」として啓示していると言えるのではないか。
 
 
 パスカルは「賭けとしての実存」の問いを、自分自身の頭の中だけで作り上げた問いとして提起しているのではない。むしろ彼は、私たち人間存在が常にすでに巻き込まれてしまっている状況を改めて根源的な仕方で受け取り直しながら、そのことのうちで私たち一人一人の読者に対して、「あなたの答えは、どのようなものか?」と問いかけているのである。つまるところ、賭けの選択肢の選択は私たちの自由になるとしても、賭けの状況そのものは決して人間の自由にはならないのである。
 
 
 現存在であるわたしが置かれているところの「賭け」の状況にはこのような、「避けがたい運命」という性格が必ず付きまとう。すなわち、わたしは望もうと望むまいと、わたしの隣人たちや時代そのもの、あるいは先行する哲学の問いその他もろもろといった「状況」のうちに避けようもなく巻き込まれてしまっているただ中で、他でもない自らの全実存そのものを賭け金として、一度限りの「わたし自身の最も固有な賭け」を賭けるのである。ここでは全てのことが、いわば運命の方から次のように問いかけられてでもいるかのように進行していると言わざるをえないのではないか。すなわち、「これが他の誰でもない、あなた自身に与えられた賭けである。ゲームはすでに用意されており、後はあなたがテーブルに着くだけである。あなたは表が出ることと裏が出ることの、どちらを望むか?」「本来的な実存」を意志するとはこのように、被投性において投げ与えられている「わたし自身の運命」に向かって、自らの実存を選びとることを意味している。賭けに成功するならば、現存在であるところのわたしはあたかも天に上ってゆくかのようにして、わたし自身の存在を超えて与えられているこの「最も固有な存在可能」という彗星のもとに到達することだろう。私たちとしては『存在と時間』の思考を常に念頭に置きつつ、パスカルの議論において何が問題になっているのかを引き続き探ってみることとしたい。
 
 
 
 
[ブログやTwitterを頻繁に見てくださる方が増えてきており、とても励まされています。同時に、しっかりしたものを書かなければと、以前以上に気を引き締められる思いでいます。至らない部分もあるかと思いますが、目下のところはパスカルの「賭け」の議論を仕上げることに向かって、力を尽くして励みたいと思います。]