イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「実存的なあり方の第一次的な意味は将来なのである」:『存在と時間』の時間論、あるいは、20世紀哲学における「未来時の持つ根源的な力能の次元の発見」について

 
 パスカルの「賭け」に関する議論については、私たちはすでにその行程をたどり終えた。今や、そこで獲得された成果から、『存在と時間』における議論の核心部の方へと歩みを向け直すべき時である。
 
 
 論点:
 20世紀の思索が向かう方向を決定づけた書物である『存在と時間』の分析の中核は、現存在であるところの人間が存在することの根源的な意味を、「時間性」として読み解くことのうちにある。
 
 
 この論点は、いずれ後に「実存の本来性」を実現するところの「先駆的決意性」のあり方が十全に示される時になってはじめて、包括的に論じることも可能になるだろう。ここでは、分析の現在の時点で可能な範囲内で、この論点に迫ってみることにしたい。
 
 
 すでに見たように、パスカルにおける「賭けの奥義」とは、「すでに信じているかのようにすべてを行うこと」であった。すなわち、人間存在はすでに「新しい人」として決定的に生まれ変わったかのように自らの生を開始することによって、実際に根底的な生まれ変わりのプロセスを生き始める。この意味からするならば、「賭けとしての実存」に成功を収めるための唯一の方法とは、すでに成功を収めることが決定されているものとして実存し始めることに他ならないのである。
 
 
 「勝つことの先取り」という驚くべき論点先取こそが、『パンセ』断片233におけるパスカルの思考の極点であった。ところで、このような実存を賭けた「先取り」の契機こそ、マルティン・ハイデッガーが『存在と時間』において「先駆」の語によって言い表そうとする実存の奥義に他ならないのである。現存在であるところの人間は、〈自分に先立って〉を本来的に生きることによって、すなわち、「最も固有な存在可能」へと到達する可能性のうちへと先駆することによって初めて、本来的な仕方で実存することができる。この意味では、ハイデッガー自身も言うように、「実存的なあり方の第一次的な意味は将来なのである」
 
 
 
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 「〈じぶんに先だって〉は将来にもとづいている。[…]「じぶん自身のゆえに」へと向けてみずから投企することは、将来にもとづいている。この投企が実存的なあり方の本質的性格のひとつである。実存的なあり方の第一次的な意味は将来なのである。」(『存在と時間』第65節より)
 
 
 20世紀の哲学が時間性の問題について獲得した最も重要な成果の一つは、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』(1927年刊)やジル・ドゥルーズの『差異と反復』(1968年刊)に見られるような、未来時の持つ根源的な力能の次元の発見にある。これが、このブログが前世紀の思索の言葉を根源的な仕方で読み直すことを通して「存在の超絶」の哲学を構築してゆくにあたって、時間性の問題に関して提出し、確定させておきたい主張に他ならない。すでに触れたように、この作業には「先駆的決意性」の概念を仕上げた後に取りかかることにしたい。いま論じている「先駆」の契機に加えて、良心の呼び声の分析を通して得られる「決意性」の概念が指し示す実存の深淵へと辿り着いた後になってはじめて、生の秘密としての時間性について語ることも可能となるに違いない。
 
 
 目下の論点の方に立ち戻るならば、現在時のうちへの未来時の貫入、あるいは、現在時における「将来への先駆」こそが、パスカルハイデッガーといった思索者たちが最大限度の強調と共に指し示し続けた、「実存することの奥義」に他ならなかった。「最も固有な存在可能」は空から差し迫ってくる彗星のようにして、現存在であるところのわたしを撃つのである。わたしには決して、その衝突から目を背けることも、身をかわすこともできない。ここにおいては、あたかも来たるべき「最も固有な存在可能」の方がわたし自身を選んだかのように全てのことが進行するのであってみれば、ある意味では、わたしの側には選択権は存在しないのである。現存在であるところのわたしは、わたし自身の「将来」へと先駆することのうちへと、避けようもなく投げ込まれているのだ(人間存在は、自らの生を形づくる必然性へと委ねられた「被投的投企」として、すなわち、一個の謎めいた「未曾有のものへと差し向けられた運命」として、自らの一度限りの〈実存〉を実存する)。
 
 
 かくして、「全体的存在可能」として実現される「死へと関わる本来的な存在」の獲得を目指していた『存在と時間』の分析はその課題の終局に至って、「死への先駆」のうちに先駆することの秘密を、すなわち、実存の奥義としての「将来」の次元を発見するのである。『パンセ』断片233は、思索者としてのパスカルもまた、この次元の存在を、ほとんど身体的とも言うべき仕方で鋭く感じ取っていたことを証ししていると言えるのではないだろうか。私たちは、次回の記事において一点の補足を行った後に、「死への先駆」の概念を仕上げることの方へと本格的に戻ってゆくこととしたい。
 
 
 
 
[今回の記事で論じたような「未来時の持つ根源的な力能」は、20世紀にハイデッガードゥルーズといった思索者たちが論じるまでは、本格的な仕方では語られることがありませんでした(この論点に関してはフリードリヒ・ニーチェがおそらく、19世紀における数少ない先駆者の一人です)。『差異と反復』がまだ出版されてから50年と少ししか経っていないことを考えると、前世紀の探求の成果を踏まえた上で「時間性」の問題についてしっかりと論じることは、私たちの時代の哲学の課題に属すると言えるのではないか。筆者自身の目標は、前世紀の哲学テクストの読み直しを通して思索の根本課題を存在問題として改めて設定しつつ、来たるべき「存在の超絶」の哲学を構築してゆくことですが、探求を共にしてくださる方がいることからは非常に励まされています。時間はかかるかもしれませんが、これまでの歴史の流れを踏まえた上で〈哲学の現在〉に応答してゆく試みにお付き合いいただけるなら、これ以上の喜びはありません。とりあえずは、『存在と時間』の読解に引き続き取りかかることにしたいと思います。]