イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在論的テーゼ「実存は賭けである」:パスカル『パンセ』の問題圏へ

 
 『存在と時間』に依拠しつつ哲学の歴史そのものに対する理解を深めるためにも、ここから数回の記事では、次の論点について詳細に検討を加えてみることにしたい。
 
 
 論点:
 「全体的存在可能を生きること」は、実存の全体を一つの「賭け」として生きることを意味しているのではないか。
 
 
 前回の記事の論点を確認するところから、議論を開始することにしよう。「死への先駆」のモメントは、死という出来事がいずれやって来ることを現存在であるわたしに対して知らせる中で、「わたしはわたし自身の『最も固有な存在可能』を掴みとることを望むのか、それとも、望まないのか?」という二者択一をもって、わたしに迫らずにはおかないのだった。
 
 
 「全体的存在可能」を実存的に先取りするとは、このような二者択一の状況をそれとして引き受けることを意味する。毎日の時の流れを「変わることのない日々の連続」として捉えていた日常性の次元はこのことによって、決定的な仕方で破砕され、現存在であるわたしの目の前には、「実存するとは、一つの挑戦に他ならない Do the right thing with all your strength」という、法外というほかない生のヴィジョンが立ち現れてくることになるわけである。
 
 
 すでに述べたように、キルケゴール、あるいは後期ハイデッガーの言葉を用いるならば、こここにおいて必要とされるのは「跳躍」の行為である。あるいは、『存在と時間』の語彙でいうならば、仮借のない「自己投企」(この用語の意味については、これより後の議論において詳細に検討されなければならない)の行為に他ならないのであって、この行為をなすにあたって不可欠であるのは、一度嵐の中に足を踏み入れてしまったからにはもはや後ろを振り返ってはならないという、鋼のような意志と覚悟を持った実存のあり方(「先駆的決意性」)である。「跳躍」あるいは「自己投企」の概念はかくして、生の問題を、ある種の賭けの問題として提起する。この賭けにおいて、現存在であるわたしは「全体的存在可能」という生の可能性の全体を見据えながら、どの可能性に向かって自分自身の所持している全額を投入してゆくのかの選択を迫られることになるであろう
 
 
 
存在と時間 実存 賭け 死への先駆 最も固有な存在可能 キルケゴール ハイデッガー 先駆的決意性 ブレーズ・パスカル パンセ ブランシュヴィック版
 
 
 
 哲学の歴史において、このような「賭けとしての実存」のヴィジョンを提示した、17世紀の先人がいる。その哲学者こそは、39年間の長くはない生涯を彼自身の最も固有な戦いに費やした、ブレーズ・パスカルその人に他ならない。
 
 
 「だがわれわれはどちらに傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭けが行われ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より)
 
 
 パスカルにとっては、この賭けは「神は存在するか、それとも存在しないのか?」という二者択一の問いと決して切り離すことのできないものだった。ただし、いま論じている文脈から見て重要であるのは、彼の思索においては、この問いは「わたしはわたし自身の本当の姿を知り、『本来的な自己自身になること』へと向かって跳躍することを欲するのか、それとも、欲しないのか?」という、もう一つの本質的な問いとも根底的な仕方で連関していた、という点である。
 
 
 これから見るように、生そのものを「賭けの問題」として読者に提示するというブレーズ・パスカルの哲学の戦いは、日常性の次元との、そして、当時のヨーロッパを支配しつつあった哲学の新しい潮流との仮借のない戦いに他ならなかった。彼には、彼自身のうちで懐胎しつつあった生のヴィジョンを語るための既製の語彙も、文法もなかった。彼はそうしたものの全てを、自分自身の言葉による世界との対峙の中から、あたかも混沌の中から武器を取り出すかのようにして引き出してこなければならなかったのである。
 
 
 「思惟することのうちで、単独な現存在を引き受けること」と共にしかありえないこのような戦いは、非常に苛烈かつ孤独なものであったことが予想される。しかし、それにも関わらずパスカルは、別の面では全くもって「一人ではなかった」のであって、自分自身の全存在を賭けながら行われた彼の戦いは、彼を信じ、彼の生きざまそのものを信じていた近親者や友人たちによって、力強く支えられてもいたのである。私たちとしては、このような哲学の戦いを生き抜いたパスカルが提示した「賭け」の議論に定位しつつ、『存在と時間』における「全体的存在可能」の概念をめぐる議論をさらに掘り下げてみることにしたい。
 
 
 
 
[哲学の探求は多かれ少なかれ孤独なものであらざるをえませんが、最近では、問題提起を受け止めてくださる方が少なからずいることに大きく励まされています。哲学することへの情熱が呼び覚まされるようなものが書けるよう努めつつ、じっくりと歩みを進めてゆきたいと思います。なお、パスカル『パンセ』の翻訳は、中公文庫版(前田陽一・由木康訳)を使用しています。]