イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『パイドロス』が語っていること:プラトンのテクストにおける「本来的な仕方で実存すること」の契機について

 
 私たちは、「先駆すること」の契機のうちに含まれる「時間性」の問題について、すでに見てきた。『存在と時間』の議論の方へと本格的な仕方で戻ってゆく前に、今回はこの論点を深めておくためにもう一人、別の哲学者のテクストを見ておくことにしたい。
 
 
 「ちがった説を受け入れることは、ソクラテス、不可能でしょう。とはいうものの、あなたが言われたのは、なんともなみなみならぬ仕事のようですね。
 
 
 プラトンパイドロス』の、最終部分近くの一節(272B)である。ここで、ソクラテスの対話相手であるパイドロスが語っているのは、彼らがそれまで討議していた「真の弁論術を身につけるために歩まなければならない、限りなく長い道のり」のことである。
 
 
 ソクラテスの口を通してプラトンが語っていたのは、次のようなことである。真の弁論術とは相手を騙すようなものではなく、語りかける相手に対してしっかりとした確信を与えつつ、その相手の人格のうちに徳を、すなわち、人間性の完成への確かな足取りを築き上げるようなものでなくてはならない。この意味からするならば、身につけるべき真の弁論術とはまさしく「魂の医術」であり、人間がいかなる努力を払ってでも獲得すべき「真正に語るための技術」に他ならないのである。
 
 
 ところで、ソクラテスによれば、このような「技術の中の技術」を短期間で身につけようなどとは、とんでもないことである。なぜならば、いやしくも真の弁論術を身につけようとする人は気が遠くなるほどに長い時間をかけて、人間の魂のあり方について、真実かつ詳細な知識を身につけなければならないであろうからである
 
 
 プラトンがここで語っている「魂」という語は、現代の人間ならば「心」や「実存」といった語で置き換えてみた方が、理解しやすいかもしれない。この世界のうちで真実を語り、そのことによって「哲学者」として生きてゆきたいと願う人間は、自己自身の省察を通して、また、隣人たちとの絶えざる交わりを通して、人間の心についての、そして、実存するということについての限りなく広大かつ深遠な知を得るように努め続けなくてはならない。この意味では、ソクラテスも語っているように、真の意味で「哲学者」として生きるために歩まなければならない道のりは、決して容易なものではないのである
 
 
 
先駆 時間性 存在と時間 ソクラテス プラトン パイドロス 魂 パスカル ハイデッガー 最も固有な存在可能 ハイデッガー
 
 
 
 ソクラテスのこのような主張を受けて、若いパイドロスは冗談混じりの様子でこう答える。「私には、あなたの言われることはたいへんりっぱだと思われます、ソクラテス。ただし、もしそれが実際に可能ならばですよ(274A)。」
 
 
 おそらく、この言葉のうちには、「あなたの言うことはあまりにも高尚で、敷居が高すぎるのではないですか」という軽い皮肉も込められていたものと思われる。けれども、パイドロスは決してソクラテスの主張を否定したいのではない。むしろ彼は、おそらくは少々悪戯っぽい心持ちで、ソクラテスが自分の差し挟んだ言葉に対してどのように応答するのか、その答えを待っていたものと思われる。
 
 
 さて、ソクラテスパイドロスに対して答えたのは、次のような言葉であった。
 
 
 「しかし、ひとがりっぱな事柄をやってみようと試みるならば、結果としてどのようなことを経験することになろうとも、その経験を身に受けることもまた、その人にとってりっぱなことなのだ(274A)。」
 
 
 パスカルハイデッガー、そして、プラトンのような思索者たちが実存することのうちで最も重要と考えていたのはまさしく、「本来的な仕方で先駆すること」の契機に他ならなかった。すなわち、決意して自分自身の将来のうちへと先んじること、ここでのソクラテスの言葉を借りるならば、「立派な事柄をやってみようと試みること」以外の何物でもなかったのであって、ここでプラトンが言いたいのは、究極においては、最後には成功を収めるか否かなどといったことよりもはるかに重要なことが、私たちの人生においては存在するということなのかもしれない。終わりまで全力で走り続けること、そのために、自分自身に与えられた「最も固有な存在可能」が指し示すまだ見ぬ将来のうちへと、本来的な仕方で先駆することさえできるならば、人間存在に与えられている「一度限りの今日」は、すでに申し分なく満たされていると言えるのではないだろうか。私たちはこの後の『存在と時間』読解を通して、このような実存のあり方を、「先駆的決意性」として実存論的な仕方で確定することへと向かってゆくことになるだろう。
 
 
 最後に成功を収めるか否かは、重要ではない。しかし、プラトンパスカル、そして、ハイデッガーのように、「そんなことは重要ではない」と心の底から納得した人々こそが、哲学の歴史において決して消えることのない記念碑的な仕事を残していったこともまた確かなのであって、その意味では彼らは今なお道を走り続けている後続の私たちに対して、一つの挑戦を投げかけていると言えるのかもしれない(「現存在であるところのあなたには、あなた自身の『最も固有な存在可能』へと向かって決意しつつ自己投企することも可能なのではないか?」)。私たちは、以上をもって『パイドロス』を後にしつつ、『存在と時間』における「死への先駆」の概念を仕上げることの方へと向かうこととしたい。
 
 
 
 
[ブログとクリスチャンプレス紙での連載、そして、Twitterを通して関わってくださる方が増えてきています。以前からはてなスターやブックマーク、Twitterを通して応援し続けてくださっている方に加えて、記事に対してコメントをくださる方、自分自身の学問や言葉の仕事を築き上げることに向かって日々励んでいる若い世代の方など、挙げ尽くすことはできませんが、今のこの時代に哲学に関心を持つ方々と関わらせていただいていることは、感謝の限りです。筆者は「存在の超絶」の哲学を作り上げることを目指して目下は『存在と時間』の読解に取り組んでいるところですが、それぞれの方が自分自身の学びや探求を進めてゆく上でのヒントになれるとしたら、これ以上の喜びはありません。失敗もあるかとは思いますが、2022年現在の哲学の最前線を担ってゆくことを目指して、さらに励んでゆきたいと思います。]
 
 
(引用は、岩波文庫版『パイドロス』藤沢令夫訳(1967)から行いました。)