イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ソクラテスの「最も固有な存在可能」は、同胞たちに対しても差し向けられている:『弁明』における、「馬とあぶ」の喩えを通して考える

 
 ソクラテスの言葉を通して、哲学する人間の実存のあり方について、もう少し掘り下げてみることにしよう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、彼はこう言っている。
 
 
 「どうか騒がないでいてください、アテーナイ人諸君。どうぞ、わたしが諸君にお願いしたことを守って、わたしの言うことに、何でもすぐ騒ぎたてるようなことをしないで、まあ、聞いてください。[…]それはつまり、こういうことなのだ。諸君。もしも諸君がわたしを殺してしまうなら、わたしはこれからお話しするような人間なのだから、それはわたしの損害であるよりも、むしろあなたがた自身の損害になるほうが、大きいだろう。
 
 
 自分のことを殺すならば、それはソクラテス自身にとってよりも、アテナイの人々にとって害となるだろう。ソクラテスがこのように言うのは、彼の考えるところによれば、彼の務めとは自分自身のためよりも、アテナイの人々のために善をなすことに他ならないからである。
 
 
 すでに見たように、日常性における人間の「気づかい」は、いわば絶えず眠り込んでいるような状態にある。ソクラテスの言うところでは、人間は自らの仕事のはかどり具合を気づかい、地位や財産を気づかい、その他にも実にさまざまなことを気づかうけれども、自分自身の「魂」を、すなわち、自分自身のかけがえのない「自己」のあり方を気づかうことだけはほとんどない。この意味からすると、〈自己を喪失していること〉こそが、日常性における人間のあり方の根本体制に他ならないのである。
 
 
 ソクラテスが語っている「馬とあぶ」の喩えは、こうした状況にこそ関わっているのではないだろうか。すなわち、ソクラテスは眠り込んでいる馬としてのアテナイを目覚めさせるために神から送り込まれた、一匹のあぶである。彼は一人一人の人間と対話し、訊問することによって、彼らを眠りから目覚めさせようと試み続けてきた。それは、彼の考えるところでは、眠り続けることではなく、目覚めていることこそが人間存在の実存の「善さ」に他ならないからだ。
 
 
 ところで、それまで眠っていた人が無理矢理に起こされるとしたら、その人は当然、血相を変えて怒り出すに違いないことだろう。こうして、哲学者としてのソクラテスの戦いは、眠ることと目覚めることとをめぐる、命がけの闘争という形をとって行われることになる。彼は、自分自身の実践していることは「ただの人間的な行為とは、似ていない」とさえ言っている。それというのも、「精神を立派なものにすることに留意せよ」、すなわち、自らの「気づかい」を目覚めさせて、各人の自己自身へと向け変えよと日々絶えることなく説き続けるというのは、ほとんど人間の業とは思われないからに他ならない
 
 
 
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 このように、哲学者としてのソクラテスが自らの務めに対して抱いていた独島な使命感には、何か途方もないものがあると言わざるをえないように思われる。しかし、このことは翻って考えてみると、2022年の現在において「哲学の営み」なるものに関わっている私たち自身にとっても、次のような問いを問うことを避けられないものにしていると言えるのではないだろうか。
 
 
 問い:
 哲学する人間の「最も固有な存在可能」は、あくまでも自らの実存のあり方を気づかうことにとどまるものなのか?それとも、現存在であるところの人間が共同相互存在することをその本質としている限り、彼あるいは彼女の「最も固有な存在可能」は必然的に、隣人たちの「気づかい」を気づかうことへも差し向けられることになるのだろうか?
 
 
 ソクラテスがこの二者択一に際して選択したのは、後者の道であった。すなわち、彼にとっての「知恵を愛し求める生」とは、自分自身の魂のあり方を気づかうと共に、他者たちのそれをも、それこそ命を賭けて気づかうことに他ならなかったのである。そのためには、何という「死への先駆」が、殺されることへの覚悟が必要だったことであろうか。すでに見たように、「たとえ何度殺されることになっても」自分は自分のしていることをやめないだろうと、ソクラテスは言っている。彼は、たとえ死ぬことになったとしても自らの務めを、自分自身の「最も固有な存在可能」を貫き続けることを決意しているのである
 
 
 良心とは「気づかい」の呼び声に他ならないという『存在と時間』のテーゼが、ここで思い出される。すなわち、人間が自らの実存の深みにまで降りてゆきつつ、自分自身の「気づかい」を眠りのうちから目覚めせるとき、その「気づかい」はほとんどその人自身の意志をも超えて、彼あるいは彼女自身の「最も固有な存在可能」へと呼びかけずにはおかない。「あなたには、あなた自身の果たすべき務めがある」こそが、その呼び声の内なる語りかけに他ならないと言えるのではないか。この論点については、この後の「良心の呼び声」の分析において、事象そのもののあり方に即して綿密に掘り下げることとして、私たちとしては次回の記事で、『ソクラテスの弁明』についてはひとまず論じ終えることとしたい。
 
 
 
 
[今回の記事の最終部分では、ソクラテスの生きざまに関連して、「気づかいの呼び声としての良心」というテーマに言及しました。『存在と時間』の中核に当たっているこのテーマは、日常からは大きくかけ離れている上に、事柄それ自体が謎めいた仕方で覆われていることもあって、この本の中でも通り過ぎられてしまうことが少なくないのではないかと思います。ただし、この「良心の呼び声」なるものは私たち自身の経験にまで遡って経験できるのと共に、ハイデッガーの主張をじっくり検討してみると、最初にそう思われるよりも、常識的な感覚にとってもしっくりと来る事柄について語っていることがわかってきます。今回の読解ではこれより少し後、この「良心の呼び声」の現象をできるだけ丁寧に解きほぐしつつ、現代哲学のさまざまなテーマとも絡めつつ解明するよう試みてみたいと思います。いずれにせよ、先週から今週にかけて、ソクラテスという人の実存について考える機会がやって来ていることにはとても感慨深いものがあります。『弁明』については今日と土曜日の記事で一区切りをつけることになりますが、読解にお付き合いいただいていることにはただ、感謝というほかありません。]