イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「ダイモーンの呼び声」:ソクラテスのケースから出発して、私たちの日常的な経験について考える

 
 「呼び声としての良心」という主題について考えるにあたっては、私たちはやはり、まずはよく知られた先人の例から出発してみるのがよいだろう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスは次のように語っている。少し長くなってしまうが、引用してみる。
 
 
 「たぶん、それにしても、おかしなことだと思われるかもしれない。わたしが、[…]公には、大衆の前にあらわれて、諸君のなすべきことを、国民全体に勧告することを敢えてしないというのは、奇妙だと思われるかもしれません。しかしこれには、わけがあるのです。それはわたしから、何か神からの知らせとか、鬼神(ダイモーン)からの合図とかいったようなものが、よく起こるのです。[…]これはわたしには、子供のときから始まったもので、一種の声となってあらわれるのであって、それがあらわれるときは、いつでも、わたしが何かをしようとしているときに、それをわたしにさし止めるのであって、何かをなせとすすめることは、いかなる場合にもない。そして正にこのものが、わたしに対して、国政にたずさわることに、反対しているわけなのだ。」
 
 
 ソクラテスは、彼に降りかかってくる「声」との関わりにおいて、知恵を求める人間としての活動を行っていた。そして、この場面においては、その「声」こそが、彼に国政にコミットすることを禁じたのだと弁明されているのである。
 
 
 この「声」は普通、ダイモーンの声として知られているもので、ソクラテスの言葉や行動を規制する働きをする。つまり、この箇所や、他の箇所において彼自身の語っていることから察するに、この経験はおそらく、文字どおり声が聞こえるというよりも、「まるで声が聞こえてくるかのように、その時々になそうとしていることを強力に制止される」とでもいったような類のものである。それでいて、この制止の働きはきわめて断固としてものなのであって、だからこそソクラテスには、この声を無視して生きることは決してできないのである。
 
 
 注意すべきは、周囲の人々には聞こえることのないこの「ダイモーンの呼び声」が、ソクラテスが「知恵を求める人、ソクラテス」として活動する上で、決定的な役割を果たしていたということである。事態はあたかも、呼び声が、ソクラテスが「本来的なおのれ自身」として生きることを望んでいたかのようである。自分だけにしか聞こえることのない呼び声こそが、ソクラテスがその時々に自らの実存を選び取ってゆくように導くのである。この「ダイモーンの呼び声」の逸話は、単にソクラテスという一個人の特異な事情という範囲にとどまることなく、人間が自分自身の「自己」を生きるというテーマについて、非常に重要な論点を提供してくれるものであると言えるのではないか。
 
 
 
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 今度は、私たち自身の方に話を引き戻して考えてみることにしよう。ソクラテスほど極端なケースではないとしても、現存在である私たちもまた、「呼び声によって自分自身のあり方を問い正される」とでもいったような出来事を、時折は経験するのではないだろうか。
 
 
 たとえば、現存在であるわたしが、Aという言葉を口にしたとする。わたしは最初、自分自身の中でしっかりと吟味し、検討することをせずに、いわば「ついうっかりと」そのように発言したのだったが、後になってから、やはりそういうことは言うべきではなかったような気がしてくる。いわゆる「良心の呵責を感じる」という状況であるが、この点に関して、もう少し掘り下げて考えてみることにしよう。
 
 
 わたしは、Aと発言してしまったことで後悔の念を感じている。この後悔は、いわば「わたしの意に反して」わたしを襲うものである。つまり、わたしはそんな気分に襲われてしまうことで、少なくともその瞬間には幸せになるわけはないのだが、それにも関わらず、わたしはその気分を感じずにはいられないのである。ソクラテスのケースを考えるならば、この後悔の念は、わたし自身のこれまでのあり方を問い正す働きをしていると見ることもできるのではないか。つまり、この場合の「悔いの経験=良心の呼び声の経験」なるものは、あたかもわたしに向かって「あなたは、そのような発言をするようであってはいけない!」と呼びかけてでもいるかのように、現存在であるわたしを、それまでとは異なる「本来的なわたし自身」として生きるように働きかけていると見ることも、できるのではないだろうか
 
 
 存在と時間』の実存論的分析はこうして、良心の現象をある種の「内なる呼び声」の経験として理解するべく試みることになる。それだけでなく、この分析は「内なる呼び声」の経験を狭い意味での「さし止める」働きや、悔いの経験だけに押しとどめることなく、「本来的なおのれ自身を生きることへの呼びかけ」として、より根源的な仕方で理解するという方向へと向かってゆくのである。ダイモーンの呼び声によって、ソクラテスが知恵を求める人間としてのソクラテス自身たりえていたように、現存在である人間は、この「内なる呼び声」との関係においてこそ、自分自身の本来的な自己を選択し、掴みとってゆくのではないだろうか。呼び声の経験こそが、人間存在が「本来的なおのれ自身」を生きるための秘密であるのだとしたら、どうだろうか。私たちとしては、引き続き、良心の現象の分析を進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[今からまだ百年ほど前の1927年の時点において、それも学問の営みの枠内で「呼び声」なる概念を提出することは、おそらくは非常にスリリングな試みだったのではないかと思われますが、この概念をめぐるハイデッガーの議論には、さまざまな補助線を引いて論点を深めてゆくことが可能です。ソクラテスの「ダイモーンの呼び声」はその最も分かりやすいケースの一つで、この符号については、すでに多くの研究者たちによって検討がなされていますが、「ソクラテスのダイモーンとは結局、何だったのか?」という疑問に対して現代哲学の観点から解明の手がかりを見出したことは、やはり『存在と時間』という書物がもたらした大きな功績の一つに数えられるのではないかと思います。「呼び声」の経験については、この後の検討を通してさらに理解を深めてゆくよう試みてみることにします。読んでくださっている方の哲学探求が、今週も実り豊かなものであらんことを……!]