イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生きることの重荷と、「幸福」なるものの探求:「負い目ある存在」の分析へ

 
 今回の記事から、良心の現象をめぐる分析は新しい領域へと踏み込んでゆくことになる。まずは、次の問いを立てるところから探求を開始してみることにしたい。
 
 
 問い:
 「良心の呼び声」は私たち人間存在に対して、一体何を告げ、理解させるのだろうか?
 
 
 私たちはこれまで、「内なる呼び声」なるものの性格について分析を加えてきた。「『良心の呼び声』は私たち自身の思惑を超えて、私たち自身に語りかけてくる」がそこでの結論であったが、それでは、そこで語られていることの内実とは一体、何なのだろうか。「〜すべきではないか?」「〜すべきではないのではないか?」といった感覚に襲われるとき、正確に言って、私たちには何が告知されているのか?
 
 
 この点に関するハイデッガーの答えは、以下のようなものである。
 
 
 答え:
 「呼び声」によって告知され、射当てられているのは、人間自身の「負い目ある存在」に他ならない。
 
 
 死に関する実存論的分析において根底的に重要であったのが「死へと関わる存在」であったのと同じように、良心の分析においてはこの「負い目ある存在」の概念が根幹をなすものになってくる。逆を言えば、「負い目ある存在」がはらんでいる問題を十分に解きほぐし、それをしっかりと捉えるならば、私たちの目の前にはいよいよ、実存の本来性としての「決意性」のモメントが立ち現れてくることになるわけである。
 
 
 人間存在が本来的な仕方で実存しはじめ、自らの「最も固有な存在可能」へと投企するためにはその前提として、自分自身の「負い目ある存在」を正面から引き受けるのでなければならない。「負い目ある存在」のうちにはいわば、現存在であるところのわたしの「ありのままの真実」が体現されているのである。かくして、この「負い目ある存在」の概念を掘り下げてゆくことは、人間が人間であることの条件を根底的な仕方で問い直すことを意味するものであるように思われるのである。
 
 
 
良心の呼び声 内なる呼び声 ハイデッガー 死へとかかわる存在 負い目ある存在 実存 本来性 決意性 最も固有な存在可能 存在と時間
 
 
 
 「負い目」について語り始める箇所におけるハイデッガーの言葉を、引用しておく。
 
 
 「呼び声は何を理解させるように告知するのか。かくて、呼びかけの理解を分析することによってはじめて、この件を顕在的に究明することへとみちびかれうる。[…]良心の「声」はなんらかのしかたで「負い目」について語る。すべての良心経験ならびに良心解釈は、この点に関しては一致しているのである。」(『存在と時間』第57節より)
 
 
 これから分析を進めてゆくにあたって最初に指摘しておくべきは、自らの「負い目ある存在」を引き受けることは人間にとって、ある種の重荷であるのと同時に、その人が本当の意味で幸福な生を送るための条件にもなっているという点なのではないかと思われる。
 
 
 「負い目ある存在」とは別の言葉で簡潔に言い換えるならば、一つには、「応答するべき存在」ということである。「良心の呼び声」は沈黙のうちで、「最も固有な存在可能」へと呼び覚ましながら「応答せよ!」と人間に迫ってくるのだが、この現象が他でもない「良心」の現象である以上、この呼び声の求めるものが単に楽しいというだけで終わるものでないことは、前もって予想されるところである。自分自身の真実に直面するというのは、楽なことではない。目を背けたくなるようなことも、辛いと感じるようなことも、時にはあるかもしれない。
 
 
 しかし、真実なるものが時に痛みを伴うものであること、本当の生き方に到達するというのは困難な試みであることは、私たちの誰もがうっすらとは気づいているのではないだろうか。自分自身の「負い目」を理解し、引き受け、それに応答することのうちで生きることの意味がはじめて根底的な仕方において掴み取られ、幸福なるものが真実の探求と決して切り離しえないものであることが明かされるとしたら、どうだろうか。以上のような見通しを持った上で、私たちとしては常に『存在と時間』のテクストに立ち返りつつ、分析を進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[今回の記事から、「負い目ある存在」の分析が始まりました。生きることの重荷というのは困難な主題ではありますが、「幸福」の概念とも関連させつつ、問題の内実に迫ってみることにします。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]