イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「彼方から彼方へと呼び声がする」:呼び声に耳を澄ますという、実存論的分析の課題について

 
 「良心の呼び声」の現象に本格的に取り組んでゆくにあたって、まずは、この分析が向かって行く方向を前もって見定めておくことにしたい。
 
 
 論点:
 「良心の呼び声」に関する実存論的分析は、「内なる呼び声に耳を澄ますこと」とでも言うべき態度を通して遂行されることになるはずである。
 
 
 状況を整理しておこう。すでに見たように、良心の現象が最も分かりやすい仕方で問題になっていると言えるのは、「良心がとがめる」といった場合である。つまり、現存在であるわたしが自分のしてしまったことに対して、悔いを感じているという時には、自分自身の良心が問われていることは明白であるといえる。しかし、「呼び声が呼ぶ」という現象の範囲は果たして、こうした場合に尽きているのだろうか。
 
 
 たとえば、何がどうとはうまく言い表せないのだけれども、自分自身の置かれている状況に対して「何かが違う!」と感じるような時がある。あるいは、自分がそれをしたいわけでは決してないにも関わらず、「これを行うことこそが、今の自分にとっての『正しい選択』に他ならないのではないか」という感覚あるいは予感に襲われることも私たちの生においては起こりうるし、また、実際にも起こっていると言えるのではないか。
 
 
 つまり、こういうことである。現存在であるところの私たちの生においては、私たち自身の意図を超えて、あるいは、時には私たち自身の意図に反するような仕方で、「これこそがあなたの行くべき道だ」とでもいったような方向が示されることがある。これはまさしく「声なき声」によって呼びかけられるとでもいったような経験なのであって、文字どおり音声や言葉という形を通して発されるわけではないにせよ、そこでは何らかの「開示」の出来事が問題になっていることは、否定すべくもないのである。声なき声としての呼び声は、呼ぶことによって現存在である私たちを、私たち自身のもとへと連れ戻すのだ
 
 
 
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 「呼び声の開示傾向にあっては、衝撃という契機が、途切れとぎれに揺りおこすという契機が含まれているのである。かなたからかなたへと呼び声がする。呼び声に打たれるのは、連れもどされたいと思っている者なのだ。」(『存在と時間』第55節より)
 
 
 上に述べたように、このような現象を分析するにあたっては、私たちには、まさしく「呼び声に耳を澄ます」とでもいったような態度が要求されると言えるのではないか。なぜならば、現存在であるところの私たちの日常性は、「呼び声を聞き落とすこと」とでも言うべきあり方によって特徴づけられているように思われるからである
 
 
 そもそも、「呼び声が呼ぶ」という表現自体が、日常性の側から見ればなじみのないものであることは否定できない。「良心がとがめる」くらいまでであるならば、まだわかる。しかし、「私たち自身の意図を超えて、私たちの実存のあり方を指し示す『自己開示の出来事』が起こりうるし、また、実際にも起こっている」と言われると、確かにそんなことがあるような気もするけれど、その一方で、哲学のテーゼとしてそういったことを主張するのはさすがに行き過ぎのような気もする、正直に言って、どう判断したらよいのか分かりかねるというのが、私たちの多くが最初に抱くことになる、偽らざる実感なのではないだろうか。
 
 
 しかしまさしく、ハイデッガー自身の上の言葉を再び引くならば、「呼び声に打たれるのは、連れ戻されたいと思っている者なのだ」。すなわち、連れ戻されたいと思っている人間、なぜかは分からないけれども、この世界の内に投げ込まれるようにして生まれてきて、逃れようもなく存在してしまっているがゆえに「わたしの本当の生とは何か?」と問わざるをえなくなっている人間にとっては、「内なる呼び声が呼ぶ」という現象は、もはや無関心のままでい続けることのできないものとなっているということもまた、確かなのではないだろうか。存在と時間』の読解を行っている私たちとしては、この点について断定を下すことはとりあえず差し控えつつ、ハイデッガーの主張を引き続きたどってゆくこととしたい。分析を進めてゆく中で、事象そのもののあり方が、事象そのものの側から少しずつ示されるという仕方で明らかになってゆくはずである。
 
 
 
 
[今回の記事で取り上げた「彼方から彼方へと呼び声がする」という表現はいわばハイデッガーの良心の原風景を描き出すものとなっているので、この表現を押さえておくと、残りの議論にも入ってゆきやすいのではないかと思います。ハイデッガーの「良心の呼び声」にしても、レヴィナスの「顔」や「身代わり」にしても(これらの概念については、哲学の歴史を読み解くことを通して「存在の超絶」の理念を浮かび上がらせてゆく現在進行中の作業の中でも、いずれ詳しく論じる予定です)、20世紀の哲学には人間の経験の臨界点に迫るという側面が強いので、議論が非常にスリリングというか、もっと言ってしまえば、少なくとも一見したところでは危うげなものにも見えてしまう傾向があることは否定できません。ただし、この「良心の呼び声」にも当てはまることですが、議論の一つ一つの部分に分け入ってゆけばゆくほどに、「確かにここには、何らかの探求すべき事象がある」という確信がきちんと与えられるようになっていることも事実です。「事象そのものへ!」の精神を堅持しつつ、先に進んでゆくことにしたいと思います。]