イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「可能性に関わる存在」:キルケゴールの例を通して

 
 不安の気分は、人間の「剥き出しの生」をそれとして開示する。しかし、不安が不安がるとは一体、実存論的-存在論的に見るならばどのような事態であると言えるのだろうか。この点をさらに解明するために手がかりとなるのは、不安とは、不気味なものの「予感」であるという事実にほかならない。
 
 
 不安において、現存在であるところのわたしは、決定的な破滅が迫ってきていることを予感する。しかし、逆を言うならば、それはまさしく「予感」に過ぎないとも言えるのであって、わたしにはたった今、この瞬間に破滅が襲ってきているというわけではないのである。「差し迫り」という性格が不安の現象をそれとして特徴づけているのであって、この性格こそが、不安なるものの本質を見通すための鍵なのではないか。
 
 
 哲学史の中から例を引くことにしよう。ハイデッガーが『存在と時間』の中で、不安の探求において「もっとも深く突きすすんでいった」哲学者であると評しているキルケゴールは、自らの出生をめぐるある事情から、「自分は34歳になるまでに死ぬのではないか」という不安に取り憑かれていた。
 
 
 この予感はほとんど確信に近いものであったため、長い間、キルケゴールをひどく苦しませた。ハイデッガーの表現を借りるならば、この場合にも、「不安の〈なにをまえに〉はかんぜんに未規定的」であった。つまり、自分がどうやって死ぬのか、それが病であるのか事故であるのか、あるいは他のやり方でなのかは分からないけれども、必ずや自分は34歳を迎える前に、何らかの決定的な破滅によって命を奪われるに違いない。この予想に反して34回目の誕生日がやって来たとき、彼はそのことが自分でも信じられずに、わざわざ教会まで出向いていって、自分の出生記録を調べることまでしたそうである。
 
 
 キルケゴールを脅かしていたのは、いまだやって来ていない、自分自身の将来の可能性であった。可能性は彼の不安のうちで、自らの死の可能性として迫っていたわけである(当人に明確に意識されているかどうかには関わらず、死の可能性は、不安を不安として構成する本質的な契機である)。不安はこのようにして人間存在を、自分自身の宿命的な存在可能へと投げ返さずにはおかないのである。
 
 
 
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 「不安は、現存在がそのために不安になるものへ、つまり現存在の本来的な存在可能へと現存在を投げかえす。[…]不安になることの〈なにのために〉によって、かくて不安は、現存在を可能存在として開示する。しかもこの可能存在は、単独化されたものとしての現存在が、唯一じぶん自身から単独化においてそれでありうるような、可能存在なのである。」(『存在と時間』第40節より)
 
 
 ここで私たちは『存在と時間』全体の議論にとって重要な意味を持つことになる、決定的な論点に再び突き当たっている。それは、現存在であるところの人間は、その本質からして「可能性に関わる存在」であるという事実にほかならない。
 
 
 不安とは、いわば「準備が整っていないうちにわたしに襲いかかって来てしまった、わたし自身の可能性」に他ならないのである。不安を耐え抜くためには、わたしは本当はもっと多くの叡智と、支えとが必要なはずであった。しかし、現存在であるところのわたしの実存は一度、不安によってもたらされる決定的な破滅のうちで、崩れ落ちるのでなければならなかった。不安とは、常に「やって来るのが少し早すぎた不安」であるというのが、人間存在の抱えている運命のようである。
 
 
 可能存在なるものは人間にとって、決してポジティブな意味合いだけを持つものではないのである。むしろ、可能性とはその核心において見間違えられることなく捉えられる限り、その本質において「不安」そのものである。つまりは、死であり、破局であり、絶望において発せられることになる「わたしは生まれてくるべきではなかった」に他ならない。哲学が、心地のよい幻想ではなく人間性をめぐる真実を捉えようとする営みである限りは、この点を見落とすわけにはゆかないだろう。
 
 
 ただし、人間が自らの可能性のうちで崩れ落ちて、全ては終わってしまったと思われるその瞬間こそ、キルケゴールも言うように、彼方から次のような声が響いてくる、まさしくその瞬間にほかならないのではないか。すなわち、「いざ、わが子よ、ただひたすらに進むがよい、一切を失う者は、また一切を得るがゆえに。」人間の根本的情態性を不安のうちに見定める『存在と時間』の実存論的分析もまた、可能性が、死への不安をくぐり抜けてゆく中でその真の姿を現し、彼あるいは彼女の「最も固有な存在可能」として示される、その瞬間を開示することへと向けられている。驚きと共に発される「まだ生きている」のうちで、実存の本来性は、自分自身に与えられている最も固有な存在可能を理解して掴みとる。