イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「それは世にも美しい、驚嘆すべき像であった……。」:『饗宴』において、アルキビアデスはソクラテスという人物のうちに、何を見たのか

 
 自己であること、一人の人間が、本当の意味で「わたし自身」と言えるような一貫性を持つとは、どのようなことなのだろうか。この点を探るために、今回の記事では、プラトン『饗宴』の最終部分に位置する、アルキビアデスによるソクラテス賛美の箇所について見ておくこととしたい。
 
 
 「さてこのようなわけで、ぼくも他の人たちも、このサテュロスの笛の曲[ソクラテスの言葉のこと:引用者注]によって、以上のような目にあってきたのだ。しかしその他の点についても、君たちにはぼくの言うことを聞いてもらいたいのだ、この人がぼくのたとえたものにどれほど似ているか、またどれほど驚くべき力をもっているかということを。というのも、いいかね、君たちのだれひとりとしてこの人を知ってはいないからだ。いや、ぼくが明らかにしてみせよう、いったん始めたからにはね。」
 
 
 『饗宴』のメインテーマであるエロースの賛美が一通り終わってしまった後で宴会の場にやって来たアルキビアデスは、ソクラテスという人間のうちに体現されている驚異について語り始める。ここでは、その驚異にすっかり困惑させられている彼の語りを再構成する形で、ソクラテスの人となりに迫ってみることにしよう。
 
 
 アルキビアデスの言うところでは、私たち哲学の徒を魅惑するソクラテスという人は、一見したところでは、全く大したことのない人のようである。大体、彼は『パタリロ!』のバンコランよろしく、いつでも美少年たちのことばかり追い回しているし、常に空とぼけをしていて、何も知らないような素振りを続けている。ソクラテスのことを知らない人から見たら、彼は、一人の単なる定職を持たない男にしか見えないのかもしれない。
 
 
 けれどもそれはまさしく、見た目の上でのことに過ぎないのである。本当の彼、ひとたび真剣になった時のソクラテスはいわば、全ての人を超越している。彼は、ある人の見た目がいかに美しかろうとも、あるいは財産や、地位に名声といったものを持っていようとも、全く気にかけたりしない。ソクラテスには、そうしたものを前にして自分自身の存在を恥じるようなところは、いささかもないのである。
 
 
 アルキビアデスはこのような驚くべき特質を備えているソクラテスのことを、シレノスの像に喩える。半人半馬の老人の姿をしたシレノスの像は、見た目はみすぼらしく、お世辞にも美しいとは言えないけれど、その像を二つに開いて中を覗き込むと、見るも美しい神像が目に入ってくる。ソクラテスの内面には、誰にも真似することのできない「魂の美」が燦々と輝いている。この見るも眩しい輝きのゆえに、アルキビアデスは、ソクラテスという奇跡のような人間が存在するという事実に対して、戸惑いを帯びた驚嘆の念を抱かずにはいられないのである
 
 
 
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 この点に関する、アルキビアデス自身の言葉を引用しておく。
 
 
 「しかしこの人が真剣になり、その扉が開かれた際に、内部の像をだれか見たことがあるかどうか、ぼくは知らない。けれども、ぼくはそれをこれまでに見たことがある。そしてぼくにはそれはあまりにも神々しく、金色に輝いた、世にも美しい、驚嘆すべき像だったので、ソクラテスの命じることなら、要するに何でもしなければならない、と思われたほどである。
 
 
 ソクラテスは、何も所有してはいない。彼はいわば、ソクラテスであり続けているだけである。すなわち、彼は「知恵を求める一人の人間たるソクラテス」としての本来的なおのれ自身であり続けているだけなのであって、そのことによってこそ彼は、この世の他の誰よりも眩しく輝いているのである。このような印象を抱かせる人が実際に存在したということは、現代を生きている私たちにも、アルキビアデスが抱いたような驚嘆の念を引き起こさずにはいないと言えるのではないだろうか。
 
 
 ここで改めて思い起こしておきたいのは、人間ソクラテスを実際に目撃したアテナイの人々にとっては、彼はまだ「歴史上の偉人、ソクラテス」などではなかった、という事実にほかならない。当時の彼は、それこそ定職についておらず、地位も名声も全く所有していない、一人の知恵を求める人間に過ぎなかった。しかし、彼には、周囲の人々をして次のように思わせずにはいない何かがあったもののようである。すなわち、私たちが気にしていること、そんなこと気にし過ぎても仕方ないとは分かっているのに、それでも気にせずにはいられないこと、人からよく思われたいとか、あわよくば世の中の人々から知られて、ちょっとした有名人になりたいとか、そういった全てのことは、実のところは全くどうでもいいことなのではないか。おそらく私たちはきっと、そういったことにはこれからもずっと囚われ続けることだろう。しかし、本当は、そんなものよりもずっと大切なことがあるのではないのか
 
 
 プラトンは、自分自身もそのような感慨を抱かされたからこそ、『饗宴』の最終部分において、アルキビアデスに上で見たような言葉を語らせたのではないだろうか。彼より後のアリストテレスにまで受け継がれてゆくことになる「徳(アレテー)」の探求は、ソクラテスという人間の出現と共に始まった。現代の私たちの元にまで伝えられている、哲学における「人間の内なる輝き」への畏敬の伝統の発端には、ただ自分自身であり続けようとした一人の無職の賢人がいたという事実は、記憶にとどめておいてよいのではないかと思われる。
 
 
 
 
[哲学の歴史においては、ソクラテスプラトンアリストテレスといった人々が現れるのと共に、魂や人間性、徳といった事柄が本格的に探求され始めるという事実に、重きが置かれています。自然の秩序と調和を探求していた先人たちに引き続いて登場したソクラテスはいわば、「自己への気づかい」という未曾有のモメントの存在をギリシア人たちに示したとも言えるわけで、今回見たプラトン『饗宴』の言葉のうちには、このことがもたらしたインパクトの一端が、きわめて印象的な仕方で表現されていると言えるのではないか。『存在と時間』で問われる自己性の問題は、キルケゴールフッサールといった現代の探求者たちの問題構成や手法を受け継ぎつつも、古代の人々の問いかけにも応答しうるような広がりを備えています。記事の方では、あと一回、別の哲学者の議論を参照したのち、『存在と時間』の「良心の呼び声」のパートに入ることにしたいと思います。なお、プラトンの引用は京都大学出版会『饗宴/パイドン』(朴一功訳、2007年)から行っています。]