イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

日常の風景が、「問いかけ」の場面へと変わるとき:『存在と時間』第55節が描き出す情景

 
 「呼び声」の分析を進めてゆくために、ハイデッガーの以下の言葉を取り上げつつ、「聞く」ことの可能性について考えてみることとしたい。
 
 
 「〈ひと〉の公共性やその空談へとみずからを喪失しながら、現存在は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことにあって、じぶんに固有な自己を聞き落とすのである。」(『存在と時間』第55節より)
 
 
 この箇所では、日常における人間存在にとっての「聞く」ことのあり方が問題になっているといえる。「私たちは何を『聞いて』いるのか?」という観点から、事象そのもののあり方にアプローチしてみることとしたい。
 
 
 ① 私たちの日常は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことによって特徴づけられている。これは具体的には、〈ひと〉の言うことを聞き、「空気を読み」ながら、自分自身のあり方を絶えず規制し、調整してゆくことを意味する。いわば自らの存在を、公共性のフォーマットに落とし込んでゆくわけである。
 
 
 この時、実はハイデッガーが上の箇所で言うように、固有の自己は「聞き落とされている」。つまり、現存在であるわたしは〈ひと〉の言うことを聞き、〈ひと〉と同じように振る舞うことで、「他の誰でもない、自分自身として生きる」という可能性を自ら閉ざしているのであるが、わたしは大抵の場合、その「聞き落とし」の事実には気づくことがない。わたしの自己は、半ば意識的に、しかし、半ばは無意識的な仕方で絶えず見失われていっているのであるということになる。
 
 
 ② しかし、「呼び声」の経験、すなわち、「わたしには、自分のなすべきことがあるのではないか?」という内なる感覚に捉えられる経験にあっては、わたしはいわば「自己を聞き落とすこと」から目覚めさせられる。今や、生きることそのものが一つの問題となり、「わたしはいかに生きるべきか?」という問いが、無視しえないものとして迫ってくるのである。呼び声は、〈ひと〉の言うことを聞いていたわたし自身のあり方を揺るがしつつ、〈ひと〉への傾聴を打ち破る
 
 
 
呼び声 現存在 開示 存在と時間 第55節 ハイデッガー 公共性 実存 ベルクソン 哲学的直観 アウグスティヌス 告白
 
 
 
 「呼び声は、現存在がじぶんを聞きおとしながら〈ひと〉に対して傾聴するのをうち破る。それは、呼び声が、その呼び声という性格に応じて聞くことを覚醒させる場合である。その聞くことは、自己を喪失した聞くことと比べて、あらゆる点で正反対なかたちで特徴づけられるものなのである。」(『存在と時間』第55節より)
 
 
 こうした出来事はたとえば、現存在であるところのわたしが、「何かが違う!」とでも言うべき違和感を覚える時にも経験されると言えるのではないか。
 
 
 わたしが、一見したところでは正しく見えなくもない、ある主張に耳を傾けているとする。〈ひと〉の間では、それがごく普通の主張として流通してゆきそうな気配もあるので、そのまま受け流すなり、同調しておくなりすればよさそうなのだが、わたしとしては上に述べたように、「何かが違う」と感じずにはいられないのである。それは、その主張が、理屈の上では一応は正しいのだけれども、何というか、どこか愛のないものだからで、このまま〈ひと〉に同調しているだけではまずいのではないかという感覚が、現存在であるところのわたしを捉えているわけである。
 
 
 こういった時に「呼び声」がわたしに向かって示しているのは、今までとは異なる仕方で生きるという可能性に他ならないと言えるのではないか。すなわち、「何かが違う!」という違和感はいわば、「別の生のあり方が、別の存在の仕方がありうる」ということの予感に他ならないのであって、現存在であるわたしはそこで、次のような問いかけを発することのすぐ近くへと連れ出されているのである。つまり、「世界には、もっと別のあり方もありうるのではないのか」、あるいは、「私たちには、もっと人間らしい生き方も可能なのではないだろうか」、等々。内なる呼び声はいわば、生きることをドラマ化せずにはおかないのであって、日常の風景を、実存そのものの「問いかけ」の場面へと変えるのであると言えるかもしれない。私たちとしては、引き続き「呼び声」の分析を進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[呼び声には人間存在を、自分自身の「実存」へと呼び覚ますという働きがあり、今回の記事ではその例を、「何かが違う Something isn’t right」という違和感を感じる場面に見て取るべく試みています(この論点については、ベルクソンの「哲学的直観」なども参考になります)。「問いかけ」については、今週の「断片から見た世界」で取り上げたアウグスティヌスの「わたし自身が、わたしにとって謎となった」における「謎=問いかけ」は、おそらくはここで問題にしている事柄と内密な連関を有しており、1920年代初頭のハイデッガーが『告白』を題材にして講義をしていたことなど、合わせて思い起こされます。なお、先週は疲労のため体調を崩していましたが、休んで少しずつ体調を持ち直しつつあります。Twitter上で声をかけてくださった方々、ありがとうございました!今週は念のためブログ更新はこの記事だけにしておきますが、引き続きよろしくお願いいたします。]