イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「今日も明日も、やり続けてみよう」:デカルト哲学における「高邁」の情念について

 
 自己を掴み取るとはいかなることであるのかを探るために、もう一人、近代の哲学者の言葉に耳を傾けておくこととしたい。デカルトは『省察』の第三部の冒頭において、「重視」や「軽視」の情念について語り始めたのち、次のように言っている。
 
 
 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。」
 
 
 この言葉に続いてデカルトが語るのは、ある意味では彼の全哲学の到達点であると彼自身も認めているところの、「高邁」についてである。以下、彼の語る「高邁」の情念の内実を見てみることとしたい。
 
 
 ① 私たち各々の人間には、考えるたびに驚きの念を覚えずにはいられない、一つのものが備わっている。それこそが彼の言い方によるならば、自由意志を行使する能力に他ならない。すなわち、私たち人間存在には、あくまでも自分の力の及ぶ範囲内においてではあるが、さまざまな事柄をなすこともできれば、なさないままでいることもできるのであって、このことは、日常の生活において私たち自身も経験している通りである。
 
 
 デカルトによれば、極めて当たり前のものにも見えるこの事実こそが、私たちが自分自身の存在に対して内的な満足を感じることのできる、最大にして唯一の理由なのである。なぜならば、この事実は、私たちが真に「他の誰でもない、わたし自身のもの」と言いうるような生を生きることを可能にしてくれるものであるからだ。わたしは、自らの力の及ぶ範囲において、わたし自身の生のあり方を選び取ることができる。このことのうちに存する意義はおそらく、普通そう思われている以上に限りなく大きいのである。
 
 
 ② ただし、この感動あるいは驚きの情念を、その場だけの感動に終わらせてしまっては非常にもったいないのであって、私たち人間には、意志を自由に行使できるという事実を、自らの意志を善く用いようという「確固不変の決意」へと鍛え上げてゆくことが可能である。もちろん、人間存在は弱いから、さまざまな誘惑や惰性に負けてしまったり、臆病や怒りといった情念に振り回されてしまったりするようなこともしばしば起こるだろう。しかし、私たちの各々には、各人に最も固有な「人間性の完成」なるものへと向かって努力し続けてゆくチャンスが与えられていることもまた、事実なのである。
 
 
 
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 「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」
 
 
 改めて注目しておいてよいのは、デカルトも言うように、この「高邁」の念を感じ、そのことを通して意志を善く用いようと決意することは、原理的にはいかなる人にとっても可能であるということである。
 
 
 私たち人間は、生きている限りは必ず、自分自身のあり方や現状に落胆したり、他の人のことをうらやましく思ったりせずにはいられないもののようである。たとえば、もっと器用に生きられていたらなあとか、僕には、結局コミ力がないから何にもうまくいかないんだとか、こんなに大切にし続けているものがあるのに、なんで世の中から全然認められないんだろうとか、そういったことを考えたりもする。
 
 
 しかし、デカルトが「高邁」について語っていることを思い起こすならば、私たちには、それとは別の仕方で考えることも可能なのではないか。つまり、どう頑張ってみても、無理なものは無理なのだ。そういったことはまさしく、「自分の能力の及ぶ範囲」には属さないのであって、僕には/わたしには、それこそ世の中の片隅でひっそりと考え続けてゆくっていうくらいしかできないのかもしれない。それでも、これは他の誰でもない、僕自身の人生なのだ。それだったら、ただもうひたすらに考え続けて、僕自身の/わたし自身の生き方を掴み取れるように死ぬ気で頑張ってみるっていうのもありなんじゃないか、等々。こういったことを、もう少し哲学的な言い方で言い直してみるならばこうなる。人間存在には、それぞれの最も固有な「確固不変の決意」に向かって一歩一歩の道のりを時間をかけて歩んでゆくということも、可能なのではないか
 
 
 真実に知恵のある人というのはおそらく、自分だけのために自らの能力を用いるのではなくて、私たちの一人一人のうちに存在する「内なる宝」のありかを指し示すために、自らの知性を用いることのできる人のことを言うのだろう。「高邁」の念について語ることで、デカルトは、後世を生きる私たちに対しても、この上なく貴重な贈り物を遺してくれたと言うことができるのではないだろうか。私たちは、以上の議論をもって「自己」の問題圏への導入を終えたということにして、次回からは『存在と時間』の「良心の呼び声」の分析の方へと進んでゆくこととしたい。
 
 
 
 
[道徳論というのはデカルトにとって、あらゆる学問の成果を前提としてはじめて成立するものであって、今回の記事で見た「高邁」の精神は、ある意味では彼の哲学の究極のモメントの一つを指し示すものであるといえます。哲学というのは、突き詰めてゆくと必ず堅固な単純さへと行き着かずにはゆかないものだと改めて思わされますが、デカルトが語っている「確固不変の決意」は、『存在と時間』において語られている「決意性」の現象のきわめて近くに位置していると考えることもできそうです。ここから先の記事では、ハイデッガーのいう「決意性」をできる限り明晰な仕方で、2022年現在の日本語で言い表せるよう試みてみたいと思います。気の向いた時だけでもお付き合いいただけるとしたら、これ以上の喜びはありません。なお、デカルトの引用は岩波文庫版『情念論』(谷川多佳子訳、2008年)から行っています。]