イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の超絶

 
 存在の超絶:
 他者の意識は、わたしのあらゆる類推と想像を越えるところに存在する。そして、わたしには厳密に言うならば、決してあなたの意識に到達することはできない。
 
 
 この「存在の超絶」からは、数多くの論点を引き出すことができそうである。たとえば、次のものがその一つであると言えるのではないか。
 
 
 世界の存在テーゼ:
 世界がわたしの見ている夢であるということはありえず、世界は、わたしの意識からは隔絶したところに存在する。
 
 
 「わたしは今、夢を見ているのではないか?」というデカルト的懐疑を際限なく延長してゆくことについては、ある乗り越え不可能な限界が存在すると言わざるをえないのではなかろうか。なぜならば、懐疑する意識であるわたしのあらゆる懐疑を越えたところで、他者たちは厳然として存在し続けるであろうからだ。
 
 
 他者であるあなたは、わたしの意志には全く関わることなく存在し続けるであろう。そして、あなたが存在するというその「存在」は、わたしがそれを認識しようとしまいと依然として存在し続けるに違いないのである。
 
 
 「存在の超絶」という術語は、この厳然性を、この「依然として」を改めて強調しつつ言い当てようとするものである。「存在の超絶」は、筆者の考えでは、先人の語っていた「存在するとは別の仕方で」をめぐる議論の消息に対応しつつ、それでもなお「存在」について語り続けるための足がかりになるだろう。
 
 
 
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 ともあれ、他者は存在する。そして、そのことの当然の帰結として、他者たちがその中で存在している世界もまた、否定するべくもなく存在していることになるだろう。
 
 
 存在するという言葉のうちには何か、非常に厳粛なものがある。「ある」には抗いえない。あるいは、そうした抗いえないものとして、存在は揺らぐことなく存在し続ける。
 
 
 近代という時代の悪しき継続としての現代は、構成する意識の絶対性に依拠し続けている。
 
 
 この意識は、それが意識的であれ無意識的であれ、たった一つしか存在しない「この現実」もまた、フィクションや仮想現実とほとんど変わることがない「意識の構成物」であるという存在理解しか持ちえず、ただ意識だけが、究極的にはただ一つであるはずの意識だけが絶対者であるということになるのかもしれない(終末論的唯心論としての現代)。
 
 
 しかし、他者は存在する。他者は意識のあらゆる構成に依拠することなく、わたしの意識を「超絶」して存在するのではなかろうか。独在性が突き詰められるその極点において他者の存在が示されるという意味では、この「他者の存在」はまさしく黙示的としか呼ぶことのできないものであるようにも思われるが、ともあれ、この「存在の超絶」について、引き続きその帰結を追ってみることとしたい。