イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

幸福と身代わり

 
 論点:
 他者であるあなたもまた、わたしと同じように、人間であることの有限性を免れえないであろう。
 
 
 わたしは考える意識であるのと同時に、他の誰でもない「この人間」でもある(二つ折れの与え)。同じように、他者であるあなたもまた、わたしを超絶した「別のコギト」であるのと同時に、この世界の中で生きる一人の人間でもある。
 
 
 したがって、あなたもわたしと同様、いずれ死ぬという運命を避けられないであろう。無限者であるあなたが死にうるということ、あなたもまた生まれ、老い、病み、死ぬことを逃れえないというこの事実、他者の超絶を認めようとする立場は、この事実からも目をそらすわけにはゆかぬであろう。
 
 
 あなたのうちに、貧者と病人を見てとること。それは同時に、この世界を生きているまだ見ぬ無数の隣人たちのうちに、貧者と病人とを予感することにもつながっているのではないだろうか。非-現象学という「知ならざる知」の立場に立つ必要があるというのは、この意味である。
 
 
 わたしが知らないところ、わたしが見ることも聞くこともないところで、他者たちは存在している。ある人は喜び、ある人は苦しみながら。その「存在」はわたしの意識、わたしの心からは完全に超絶して存在しつづける。このことは、その根本においては一切の感傷と自己正当化を許すことのない、厳粛な事実そのものであると言わざるをえないように思われるのである。
 
 
 
他者 別のコギト 非-現象学 存在 レヴィナス 主体性 身代わり 倫理
 
 
 
 おそらくは私たちの誰もが、心に刻みながらにせよ、忘れてしまおうと努めながらにせよ、どこかでこの事実を意識しつづけながら自分達自身の生を営んでいるのではないだろうか。
 
 
 厳密に考えるならば、幸福であることそれ自体のうちに罪があるとは言えまい。しかし、罪とは、世界には、わたしの知らないところで苦しんでいる無数の他者たちが存在することを知りながら、それでもなお「わたし自身の幸福」に、わたし自身の享受の閉鎖性のうちに閉じこもり続けることであると、多くの先人たちが指摘しつづけてきた。
 
 
 倫理的に生きるとは、絶望的なほどまでに難しいことである違いない。他者に向かっておのれを投げ出すこと、個人のものではなく、人類全体のものでしかありえない「最高善」のためにわが身を差し出すことができるためには、途方もないメシア的主体性(レヴィナスは後年、この主体性の様態を「身代わり」と呼んでいた)を引き受ける必要があることは間違いないのではあるまいか。
 
 
 かく言う筆者自身、このような意味において「倫理的」に生きているかと問われるならば、言うまでもなく、それにははるか遠く及ばないと告白せざるをえないのである。倫理的に生きることそれ自体には及ばない可能性が高いとはいえ、哲学者として、倫理的に生きることについて考え続けることを自分が選択してしまっているという事実を、自戒とともに改めて思い起こしている次第である。