イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

承認から超絶へ

 
 論点:
 究極的孤独の状態は人間であることの条件を、いわば逆側から照射する。
 
 
 自明ではあるが、根源的な実存論的事実から出発することにしよう。それは、人間には、自分自身で自身に対して承認を与えることはできない、ということである。
 
 
 すでに論じたように、人間は、他者から「あなたは人間である」と認めてもらわなければ、自身が人間であることの意味すらも見失ってしまうような存在である。他者の不在は、彼あるいは彼女にとってはそのまま死を意味する。人間には、何らかの意味において他者の存在を望むか、あるいは自殺することを望むかの二択しか存在しないのである。
 
 
 このように見たとき、承認のモメントは、他者の超絶という形而上学的事実をあらためて照らし出すと言えるのではないだろうか。
 
 
 承認は、孤独の中では決して与えられることができない。わたしに対する承認は、わたしを超える他者から与えられる他ないのであって、承認のモメントはしたがって、認識の主体であるわたしの意識の内側には決して収まりきることがない。超絶に関わるかぎりにおいて、承認は、人間存在の関係論的な側面を照らし出す。自己は、自己を超絶する他者との関係のうちでしか自己であることはできず、その意味で、人間の生を意識における内在としてのみ記述しようとする哲学的企ては、人間の条件を根本のところで逸するほかないように思われるのである。
 
 
 
ハイデッガー クワイン
 
 
 
 「わたしには他者は必要ない」と言明することは、超絶そのものを拒絶することである。ところが、このことはそのまま死あるいは自殺を意味する。もしそうであるならば、人間として生きるとは、超絶との関係のうちで生きることであるということになるのではないか。
 
 
 超絶は意識の内側には決して収まりきることがないため、哲学的思惟からは抜け落ちてしまうことも稀ではないけれども、人間の生を他でもない「人間の」生として支え、保ち続けている。私たちは、自分自身で思っているよりもはるかに宗教的な存在なのであって、形而上学が超絶のカテゴリーを手放すときには、ハイデッガークワインも主張していたように、形而上学は諸々の自然科学や人文科学へと解体されてゆくことだろう。
 
 
 今日、情報技術の発展を背景としつつ、人間は次第に「他者の存在しない世界」を空想するようになってきているが、このことはそのまま、人間が人間存在自身の完全な自殺を思い描くことに等しいのではないか。技術と反出生主義の間に存在する連関は、時代が下るにつれてますます明らかなものになりつつあると言えるのではないか。これに対して、哲学の営みは、超絶を超絶として見定めることの方へと目を向ける。病むことと哲学をすることとが切り離せないものであるとすれば、それは病むことが、その栄光と悲惨のうちで人間が人間であることの意味を照らし出すからに他ならない。病人にしか、あるいはかつて病人であった人間にしかできないことがもしあるとすれば、それは恐らく、自己を自己たらしめているところの自己を超えるものに、その実存の最内奥において打たれることに尽きると言えるだろう。