イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

転移に由来する狂気について

 論点:
 真理の審級は、わたしからもあなたからも独立している。
 
 
 すでに論じたことではあるが、真理がどのようなものであるかということは、わたしやあなたの意志によってはどうにもならない。一番わかりやすい例でいえば、数学の内容は言うまでもなく、人間が自分勝手に変えることはできないのである。
 
 
 ただ、話が若干複雑にはなるが、ここで興味深いのは、本来は別々なものであるはずの他者の次元と真理の次元とが、無意識のうちに重ねられるケースも存在するということである。いわゆる転移の現象、あるいは愛の経験がそれだ。
 
 
 転移としての愛の経験においては、真理が、他者であるあなたのうちにいわば「飲み込まれてしまう」。あなたこそが真理であり、あなたのうちに全てがあると想像されてしまうのが、まさしく恋の狂気なるものの内実なのである(「知っていると想定された主体」)。
 
 
 恋においては、他のすべてのことがいわば「どうでもよいもの」となって、真理がたった一人の他者のうちに飲み込まれてゆく。
 
 
 したがって、恋の体験においては考える意識の主体であるわたし自身すら、「この人間」としてのわたし自身すらもがどうでもよいものとなる。恋する主体は「わたし自身があなたのために死ぬ」という、現実にはありえない情景をくり返し思い描くのだが、真理の次元がたった一人の他者のうちに飲み込まれてしまうのが恋の体験であることを考えるならば、それも当然のことと言えるのかもしれぬ(どれほど倒錯していようとも、人間は「真理のために死ねる」のである)。
 
 
 
 転移 真理 恋愛
 
 
 
 おそらく、これに似たようなことは政治の領域においても起こりうる、というか、かつてはそうしたことがむしろ当たり前のこととされていた。すなわち、「神聖な王権」という観念の発生がそれだ。
 
 
 たった一人の王、あるいは君主による政治が正しいものとされるのは、政治の真理が、たった一人の王あるいは君主によって体現されると想像されるからである。現代の世界が君主制よりも民主制を正しいものとしているのは、いわば人類がかつての「恋から醒めて」、真理の審級をたった一人の人間のうちに体現させるという道を選択しなくなったからではないだろうか。
 
 
 恋とは、かくもアルカイックな行為なのであり、時代が現代に近づいてゆくのとともに「狂気の恋」なるものも数は少なくなってゆくもののように思われる。恋とは、狂った主体によって突然に採択される絶対君主制なのだ。なんとも破天荒な想像、あるいは妄想ではあるが、人間が一番激しく狂ってゆくのはほかでもない、自分が狂っているということを明晰に意識しながら狂ってゆく時なのではないかと思われる。