イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

エピクロス派の人々による反対論:「そもそも、死について深刻なことを考えるということ自体がナンセンスなのではないか?」

 
 それにしても、私たちは死というこの主題に対して、どのようにして接近を試みることができるだろうか。まずは、ハイデッガーが指摘している次の論点を確認するところから、考え始めてみることにしよう。
 
 
 「現存在が存在者として存在しているかぎり、現存在はじぶんの『全額』をけっして入手していない。現存在がじぶんの全額を獲得すれば、たほうその獲得は世界内存在の端的な喪失となる。存在者としては、現存在はそのときだんじてもはや経験可能ではなくなるのだ。」(『存在と時間』第46節より)
 
 
 現存在であるところの人間は、いつの日か死ぬことでその生涯を終える。その意味では、人間の生は死ぬことをもって、はじめてその「全額」に達する、すなわち、完結するのだとも言えそうである。
 
 
 すでに見たように、人間とはその本質からいって「可能性に関わる存在」であるのだから、人間は生きているかぎり、「自分自身の将来へと関わっている」という仕方で世界のうちに存在しているといえる。その意味では、よく言われるように、人生というものは必ずどこか未完結的なところを、常に残している。この「まだ先がある」という性格は死によってはじめて取り去られるに至り、そこで人間の生はついに「完結する」……かに見える。
 
 
 しかし、生に完成を与えるかに見える死の瞬間をくぐり抜けた後には、意外というか、パラドキシカルな結末が待っている。すなわち、現存在であるところの人間は、自分自身の生涯の完結であるはずの「死」という出来事を経験したその後には、もはやこの世界のうちには存在していないのである。
 
 
 死なないと生は完結しないが、死んだ後には生はもはや存在しない。外側から見てみると少しだけユーモラスな情景になりそうであるが、以下のような場面を想像してみることにしよう。生きている間、「ああああ、僕はまだ死にたくないのだ……!」とひっきりなしに叫び続けていた人が大騒ぎを繰り広げたのち、ついに天に召されたとする。その人がいなくなった後に地上に残されるのは、完全な沈黙である。これまでさんざん続けられてきた騒動は一体何だったのだろうかというくらいに、風は凪ぎ、木の葉は揺れ、海は大波をとどろかせ、大地は雄大にそびえ続けている。かくして、大自然の営みは何事もなかったかのように続いてゆき、万物は静かに流転し続けてゆく……。
 
 
 
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 古代には、ハイデッガーも指摘している今のこの論点に着目して、そこから実践上の帰結を引き出した人々がいた。それこそが、筋金入りの自然主義者にして原子論者であるところの、エピクロス派の人々に他ならない。
 
 
 「死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、(死は生物の原子的要素への分解であるが)分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。」
 
 
 伝統的に、エピクロスその人のものとされてきた断片の言葉である。エピクロス派の人々によれば、死は人間にとって、何物でもない。なぜならば、人間が存在する時には死は存在せず、死が存在する時には、人間はもはや存在しないのであるから。哲学の省察は生についての省察であるべきであって、死についての焦慮であるべきではない。かくして、彼らエピクロス派の人々の見解によるならば、死が何か非常に恐ろしいものででもあるかのように考える人は、根本のところで何か大きな思い違いをしているのだ、ということになる。
 
 
 死について思索しようと試みる哲学に対する、エピクロス派の人々の反対論:
「死は人間にとってはまさしく『何物でもない』のだから、死について何か深刻なことを考えるということ自体が、そもそもナンセンスなのではないか?」
 
 
 つまりは、こうである。哲学の教えはこれまで伝統的に「死を想え memento mori」であり続けてきたのであって、それこそ哲学の営みを「死ぬことの練習」と規定したプラトンの『パイドン』以来、このことは常に一貫している。しかし、一方にはエピクロス派のような人々もいて、彼らは穏やかに哲学者たちに向かって、「われわれは死ぬことをではなく、生きることの方をこそ思索しようではないか」と主張し続けているのである。
 
 
 実際のところ、どうなのだろうか。哲学の営みは果たして、死について真剣に思索する必然性を持つと言えるのだろうか。私たちが論じている『存在と時間』を書いたハイデッガーは言うまでもなく「死を想え」の側に立つ人であるが、このような立場にある人は、死に対してエピクロス派のようなスタンスを取る人々に対して、一体何を言うことができるのだろうか。さすがはどのような主題についてもあらゆることを考えずにはいられないのが哲学の宿命というだけあって、「人間は、死について真剣に思索すべきか?」というこの問題についても、積極派と非積極派の両陣営が存在しているのである。ここからは、『存在と時間』という本のアプローチに関して重要な論点を引き出すこともできそうなので、次回の記事では、この点についてもう少し掘り下げて考えてみることとしたい。