イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「存在の家」の探索

 
 前回の論点に、別の観点から補足を加えておくことにしよう。
 
 
 論点:愛の体験もまた、人間を「他者のために生きる」という実存可能性へと向け変えるきっかけの一つなのではあるまいか。
 
 
 赤ちゃんの話からいきなり恋愛の話に飛ぶのは、いささか唐突と思われるかもしれぬ。
 
 
 しかし、先人が「存在の家」と呼んだ言語そのものに尋ねてみるならば、この話の向け変えの正当性も納得されよう。なぜといって、英語では愛しいひとのことを「ベイビー baby」と呼ぶではないか。
 
 
 「ベイビー」とは、愛しいひとが、「保護されることを必要としている、かよわい存在」として捉えられているからこそ用いられはじめた言葉なのではないかと思われる。
 
 
 たとえば、マドモワゼル・カスミ・アリムラのような女性が、一体いかにしてかよわくないなどということがありえようか。高原に咲く可憐な花のような彼女から「おーい、お茶」と言われると、いっそお茶になってしまいたい(意味不明)と思わずにはいられないのは、恐らくは筆者だけではあるまい。
 
 
 ついでに指摘しておくならば、「マイハニー my honey」という愛しいひとへの呼びかけは、その愛しいひとがすでに自分自身に「甘い思い」を与えてくれる相手として、すでに半ば相手と互いの存在を「所有しあっている」ことを含意している。したがって、すでに両思いになっている相手に対してでなければこの「ハニー」なる呼称は使えないわけであって、この呼称はまことにリア充エリートによる、リア充エリートのための語彙であるといってよかろう。
 
 
 
赤ちゃん 存在の家 ベイビー カスミ・アリムラ マイハニー リア充 おーいお茶 ディズニーシー ホンダ・ツバサ ミッキー ミニー
 
 
 
 それにしても、「言語は存在の家である」という表現はまことに正鵠を得ており、哲学者にとっては、言葉に対する感覚を常に研ぎ澄ましておくことが死活的に重要なのではないかと思われる。ここではもう一つの一例として、上に用いた「リア充」なる語を取り上げておくこととしたい。
 
 
 「リア充」とは言うまでもなく、「リアルが充実している」の意味である。この語においては、「恋人を持つことによってはじめて、人生なるものの現実が真に意義のあるものになる」という真理あるいはドクサが主張されているわけである。確かに、ホンダ・ツバサちゃんのような女の子とミッキー&ミニーのカチューシャを付けながらディズニーシー園内を歩き回ってハッスルするというのは、まさしく充実した現実以外の何物でもなかろう。
 
 
 そう考え始めてみると、たとえば「ラブラブする」は単なる「ラブ」と呼ぶにはあまりにも熱すぎる狂乱的な相互交渉状態を指すのであり、「いちゃいちゃする」とはもはや「いちゃつく」という単語ですらも表現し尽くすことのできない悶絶ハレンチ状態を指すのであるということを改めて思い知らされ、存在の家を閑却することの不可能性に思いを致さずにはいられないのである。当初の目的を完全に見失いそうであるが、あくまでもパーパスドリブンな哲学探求を行うというモットーを忘れることなく歩みを進めてゆくこととしたい。