イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ホモ・サケルの時代:ジョルジョ・アガンベンと『存在と時間』、あるいは、「部屋に閉じこもって病んでいること」の根底にあるもの

 
 「存在から見捨てられていることSeinsverlassenheit」の時代としての現代とは、「生から見捨てられていること」の時代でもあるのではないか。このような問いかけのうちに入り込むとき、私たちはこれまで論じてきた『存在と時間』の議論に対して、より深い所に光を当てることができるのではないか。今回と次回の記事では後期ハイデッガーの思索を念頭に置きつつ、この本のうちで語られていることよりも内容的に少し踏み込むことになってしまうが、2021年時点における哲学の課題を明確にするという意味でも見ておくことにしたい。
 
 
 問題提起:
 実存カテゴリーとしての〈ひと〉はその奥底において、より危機的なモメントを潜在させているのではないだろうか。
 
 
 すでに見たように、現存在であるわたしは日常性において、実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生きている。すなわち、わたしは〈ひと〉が喜ぶものに喜び、〈ひと〉が腹を立てるものに腹を立てるといったような仕方で、ほとんどそれとして意識することなく、公共性の次元で流通している「フォーマット」に従って生きている。人間の生の日常をしるしづけている、このような「誰でもないこと」の様相を鋭く記述したという点で、ハイデッガーの実存論的分析は紛れもなく、すぐれて現代的なものたりえているのである。
 
 
 しかし、日常性における人間のあり方は、このような「公共性のうちで、誰でもない〈ひと〉であること」だけで尽きていると言えるのだろうか。
 
 
 存在することから、従って、生きることそのものから見捨てられているということ、これがすでに見たように、ハイデッガーが『存在と時間』を書いてより後に探求を深めていった、現代の人間の運命であった。〈ある〉を忘れ去ること、そのうちで、命そのものからも見捨てられるという人間存在の宿命を、現代という時代はますます加速させ、極限の所にまで突き詰めつつあるのではないか。
 
 
 このような後期ハイデッガーの問いかけ(『存在と時間』より後に、なぜこのような思索がなされなければならなかったのか、そこにはいかなる必然性があったのかという点についてはいずれ、より詳細な検討を加えなければならない)を改めて受け止めなおすならば、私たちには、実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生きることのうちにある危機がよりくっきりと浮かび上がってくる。現代の人間は、〈ひと〉を生きることのうちで「生から見捨てられていること」を生き、そのことによって、もはや自分自身が生きているのか死んでいるのか、人間であるのか人間以前であるのかも分からない、不分明状態の危機の可能性に対して、少なくとも潜在的な仕方では常にさらされることになる。そして、現代という時代はこの「生の例外状態的な次元」がもはや周縁的な領域に覆い隠されることなく、ひっそりと忍び寄るような仕方で顕在化しつつある時代であると言えるのではないだろうか。
 
 
 
 
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 マルティン・ハイデッガーの仕事を正面から引き受け直しつつ、現代イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンは自らの仕事を通して、私たちの誰にとっても無縁なものではありえない、ある形象を喚起した。その形象こそが、生の例外状態的な次元において常に潜在し続けている、ホモ・サケル(「聖ナル人間」)という人間存在のあり方に他ならない。
 
 
 「ホモ・サケル」とは上に見たように、もはや生きているとも死んでいるとも、人間であるとも人間より以前であるとも判別のつかない「剥き出しの生」の次元を言い表すために、アガンベン古代ローマ法の領域から取り出してきた形象である。
 
 
 古代ローマ法の、それ自体古い地層に属する規定によれば、ひとたび「ホモ・サケル」であると人民に判定された人間については、生け贄に捧げることが禁止されるのと共に、誰かがその人間を殺害したとしても罪に問われないとされた。アガンベンの炯眼は、この謎めいた規定のうちに、現代世界の政治的状況(この状況は、20世紀フランスの哲学者であるミシェル・フーコーによって初めて「生政治」という呼称を与えられて以来、静かに、しかし着実にその重要性を深めていっている)を根底から理解するための、この上ない手がかりを見出したことのうちにある。きわめて周縁的で、まさしく例外的なものにも見える、この「剥き出しの生」の次元こそが政治の営みにとって根源的なものであり、私たちの公共世界は「ホモ・サケル」という見えざる形象との関係においてしか成立しえないということ、このことを考古学的・歴史学的探求を通して示したことこそが、アガンベンという思索者の仕事の本質的な成果であった。
 
 
 アガンベンが提起したこの「ホモ・サケル」という形象はおそらく、狭い意味での政治の領域をはるかに超える重要性を持つものである。ホモ・サケル」は、生きることそのものから見捨てられつつ、もはや自分自身が生きているのか死んでいるのかもわからなくなるような不分明状態のうちで、「世界はいつ滅びるのだろうか」、あるいは、「全ての終わりはいつ訪れるのだろうか」と自問している。そして、現代という時代を生きている私たちの誰もが、少なくとも潜在的にはこの「ホモ・サケル」の生が、無条件に殺害可能で犠牲化不可能な「聖なる生」が内包している危機に対して、避けようもなくさらされているのではないだろうか。
 
 
 「都市において、聖なる生の締め出される空間は、いかなる内部性よりも内密であり、いかなる外部性よりも外的である。」アガンベンの言葉である。おそらく、私たちの時代において「全てのことから見捨てられて、部屋の中に閉じこもって病んでいること」がかくも運命的な意味を持つに至っていることは、上に述べたような歴史的状況と決して無縁なことではないものと思われる。私たちは、『存在と時間』が語っている「死への先駆」が何から身を引き離そうとしているのか、「実存の本来性」が掴みとろうとする本来的な生は、どのような危機からの決意的な向き直りとして実現されるのかを見てとるために、もう少しこの点に踏みとどまって考えてみることにしたい。