イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『存在と時間』の美

 
 引き続き、真理と超越という主題について考えてみたい。全然関係ないけど、僕も、これを読んでくださっているみなさまもどうか、かのコロナウイルスの見えざる脅威から守られんことを……。
 
 
 論点:
 およそ真理なるものには、美という紛うことなき徴標が付随している。
 
 
 フェルマーの最終定理の証明を見出したアンドリュー・ワイルズは、研究室でその証明の最終部分が思い浮かんだ時、あまりにもそれが美しすぎてしばらく我を忘れて恍惚としていたという。筆者は数学者ではないので、残念ながらその美しさの輝きにあずかることはできそうにないのではあるが、哲学の分野でのさまざまな美についてなら、いくぶんか見知っていると言えなくもないように思う。
 
 
 すべての哲学者が賛嘆せずにはいられない哲学の体系としては、たとえば、カントの体系が挙げられるであろう。特に、『純粋理性批判』と『実践理性批判』の間の緊密な連関性と相互補完性には目を見張るものがあり、概念同士の間で結ばれてゆく結合と構築の美を学ぶというだけのためであっても、この二冊を学ぶ意義は十分すぎるほどであると言えるのではないか。後は、それよりもはるかに分かりやすい美としてはやはり、ドゥルーズ先生の著作のそこかしこで見られる、概念で問題をスイスイ切ってゆく匠の技の美を挙げるべきであろうか……。
 
 
 しかし、筆者がここ最近で再読して思わずうなり声を上げさせられた著作としては、ハイデッガーの『存在と時間』を挙げておくこととしたい。昔読んだ時には正直言って、こんなにすごい本だとは思わなかったのである。こういう本を三十代半ばで書いてしまったあたり(僕もそろそろ、その歳が近いのであるようおおぉん)、今さらではあるが、このハイデッガーなる哲学者はやはり、ただ者ではなかった……。
 
 
 
真理 超越 フェルマーの最終定理 アンドリュー・ワイルズ カント 純粋理性批判 実践理性批判 ドゥルーズ ハイデッガー 存在と時間 フォース マスター・ヨーダ ミディ・クロリアン ナチス
 
 
 
 いま論じている「真理の美」という主題に関して言うならば、『存在と時間』という本が放っている異様な「美」については、とにかく「著者のフォースの強さを感じさせる」の一言に尽きるのである。すなわち、この本の叙述は、まるで真理をとてつもないシャープさで抉り取るかのような、すさまじい緊張と気迫とで満ち満ちているのだ。
 
 
 この本におけるハイデッガーの議論の切れ味の「すさまじさ」を感じ取るためには、おそらくは少なからぬ量の哲学の鍛錬が必要であろう。古代から現代にまで至る哲学史をしっかりと学び、かつ、いわゆる現象学なる方法論についても一通りの手ほどきを受けるなどした後にはじめて、自身の、そして哲学そのものの探求のすべてを「存在の問い」という一点に凝縮せしめたハイデッガーの、まるで言語を絶するかのような力業を嘆賞することができるようになるのではあるまいか。
 
 
 しかし、少し話は逸れるのだが、この力業ってまさしく同じ道を歩む者ならばみな「この男は別物だ」と思わずにはいられないほどのフォースの強さ(マスター・ヨーダですら、これほどのミディ・クロリアン値は出せぬ)を感じさせるのだが、逆を言うと、ここまでフォースが強いとなると、この哲学者はなんらか致命的にヤバい方向に向かいかねないのではないかという危機感のようなものを感じずにはいられないというのも事実である。当のハイデッガー本人はといえば言うまでもなく、『存在と時間』を書いてから数年後には、恐ろしいことにかのナチスの側に闇落ちしてしまうわけなのだが、哲学の著作から醸し出される「美」なるものの両義性について、考えさせられずにはいられないエピソードではある。