イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「存在の超絶」と、レヴィナスとの関係

 
 論点(再提示):
 師は、弟子よりも先に死ななければならない。
 
 
 手前味噌な話にはなるが、筆者は昨年の十二月頃から、「存在の超絶」というイデーを掘り下げることを試みている(興味をお持ちの方は、この時期の記事を参照されたい)。
 
 
 自分一人で言ってても仕方ないとはいえ(ごめん、大目に見ていただきたいのである)、これは個人的には、かなり熱い議論を提起しているのではないかと思っているのである。「存在の超絶」は、レヴィナス先生の仕事の成果をハイデッガー先生以来の「存在」の問題系のうちに位置づけつつ、存在の哲学をただちに倫理の領域へと開いてゆくものであると言えるからだ。
 
 
 もちろんここには、今も生きているとすれば、レヴィナス先生自身からは非常に手厳しい批判が来るかもしれないという事情があることは、忘れてはなるまい。
 
 
 ていうか、他者を「存在」の用語のうちに位置づけるというのは、先生自身もめちゃくちゃ考えまくった上でついに退けた方向なわけで、『存在するとは別の仕方で』での議論は先生があの「ある il y a」を提出して以来こだわり続けてきたことの集大成なのである。そのことを踏まえた上で考えるならば、筆者が「レヴィナス先生の成果を踏まえた上で、あえて他者について『存在』のタームで語る」と言っているのは、何言ってんの、ていうか、君は私の本をちゃんと読んだのかねと本人から叱責されても仕方ないかもしれぬのである。
 
 
 しかし、筆者にも一応、筆者なりの言い分がないでもない。十二月にも書いたけど、筆者は自分自身の議論とレヴィナス先生の議論との関係を、中世哲学におけるトマス・アクィナスと擬ディオニシオス・アレオパギテース(と、彼の後に展開されたいわゆる「否定神学」の系譜)の関係に類比的なものとして捉えている。ただし、トマスが用いたような「存在の類比」によってではなく、「存在の超絶」によって、あらゆる類比に対して突きつけられる「否」を越えて、なおも語られうるはずの「ある」によって他者は語られるべきなのではないかというのが、他者問題に対する筆者の見立てなのである。
 
 
 
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 なぜここでこんなことを書いたのかというと、レヴィナスがもしも先達として、師の中の師として思考の足跡を残してくれていたのでなければ、筆者もこの「存在の超絶」にたどり着くことは決してなかったであろうと思われるからである。
 
 
 ていうか、この存在の超絶というのも筆者が勝手に言ってるだけだから、別にどこかから「その通りだ!」と認められたわけでもないんだけどね。ただ、僕も一応哲学史だけはそれなりに勉強してるつもりだから(「同志よ、俺は最大限に控えめな表現を用いているが、君はいま、本命馬中の本命馬を目の前にしている……。」)、まあ何かしらの論点にはなってるんではないかと思うんだけど、いずれにせよ、筆者にとっては非常に大きな意味を持っている概念なので、ここでこの例を用いながら師と弟子の関係について語ることを諒とされたい。
 
 
 話を戻すと、レヴィナス先生がもしも人生をかけて「存在するとは別の仕方で」という表現を残さなかったら、筆者は今、自分が考えているようなことを考えてはいなかったであろう。どうか筆者も、先生の敷いた道に単に言いがかりをつけているといった残念な事態になっていないことを祈るばかりだが、上にも述べたとおり、この例に添いつつ、師と弟子の関係についてもう少し考え続けてみることにしたい。