イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超絶と高みについての考察

 
 論点(再提示):
 師の言葉は、弟子であるわたしの存在を超絶したところから語られる。
 
 
 もっとはっきりと言うならば、高みから語られると言ってもよいかもしれぬ。たとえば、師が「AはBである」と弟子に語ったとすれば、弟子が返してはならない反応とは大まかに言って、次の二つのタイプに分類されるであろう。
 
 
 遺憾なる反応の二類型:
 ①いや、Aには興味ないっす。
 ②いや、Aは別にBってわけじゃないんじゃないっすか。
 
 
 それぞれに遺憾なる反応であるが、まずは①から見てみよう。この場合、弟子は、師がAのことを話題に出したというのに、事もあろうに、Aは別に重要な話題ではないんじゃないんじゃないかと言っているわけである。
 
 
 師がAのことを話し始めたからには、Aが死活的に重要な話題であることはもう間違いないはずである。それをお主は、いやAとかどうでもいいっす、みどりちゃんとかアカネちゃんとかフユミちゃんとか気になってる子がたくさんいて、そっちで頭が一杯っすと申すのか、お主のような軟派者は破門であると師からブチ切れられても仕方ないところかもしれぬ。大人しくAを重要なる論題として受け入れ、なおかつみどりちゃんとアカネちゃんとフユミちゃんの三人の中で誰を選ぶのかをはっきり決めるというのが、人としてしかるべき道というものであろう(「philoくん、今日こそはいいかげんに、私たちの中で誰が好きなのか決めてっ!」)。
 
 
 
弟子 破門 ウニ
 
 
 
 さて、次いで②である。これは、Aが重要コンテンツであることまでは認めるが、Aが師の言う通りBであることまでは認めず、いや、Bじゃないんじゃないっすか、ていうかCなんじゃないっすかとか言っちゃうわけである。
 
 
 師が「AはBである」と言うからには、AはBなのである。たとえば、師が「君のお母さんはウニだ」と言ったとすれば、は、何言ってんすか先生、ではなく、す、すみません先生、ちょっと言ってる意味が分かりませんでした、僕のお母さんがウニってどういうことですか先生、ていうかウニってあの食べるウニっすか等々と尋ね、師の真意をできうる限り真摯に究明しようと努めるというのが、弟子としてしかるべき姿勢というものであろう。
 
 
 師が善き師である限りは、その師には必ずどこかでぶっ飛んでいるところがあるはずなのである。まあ、ぶっ飛んでるだけで実は単に人格が崩壊してるヤバい人だったという可能性もなくはないので、その点については弟子も大いに頭を悩ますこともあるではあろうが、基本的には師の超絶をどこまでも信じて、そこから高遠なる教えを汲み取ろうとするのが、弟子としては望ましいのではないかと思われるのである。従って、よし、僕のお母さんは今日からウニだくらいの気概と勢いも弟子には必要なのではないかとも考えられるが、そこにはいささかの問題もなくはないかもしれぬゆえ、次回また改めて考えてみることにしたい。