イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

思考は、ギリシアをさえも突き抜けてゆく:哲学と「来たるべきもの」

 
 ハイデッガーが『存在と時間』において、自らの真理論の核心を「アレーテイア」の語と重ね合わせたことの意味を、さらに掘り下げて考えておくことにしよう。
 
 
 ① 古代ギリシア人たちが「アレーテイア」という語を通して暗黙のうちに了解していたことこそ、「覆いをとって発見すること」という真理の根源的な現象にほかならない。このようにハイデッガーが主張するとき、彼はこの上なく大胆なことを言おうとしている。というのも、そのように主張しているということは必然的に、『存在と時間』の真理論こそは、かの「哲学の原初」の内奥にまで突き入ってゆくものであると言っていることになるからだ。彼は、彼自身が見出したところの「覆いをとって発見すること」こそ、哲学のアルファにしてオメガであるとほのめかしているのである。
 
 
 ② しかし、さらに注目しておくべきは、ハイデッガーがこの真理論を古代ギリシア哲学の研究として提出しているのではなく、現代のアクチュアルな哲学的主張として提出しているという事実である。
 
 
 すでに述べたように、ハイデッガーによれば、古代ギリシア人たちは「アレーテイア」という語の意味を、「暗黙のうちに」了解していた。しかし、「暗黙のうちに」ということは裏を返せば、はっきりとは認識していなかったということである(言い換えるならば、彼らの認識は前学問的なものであって、学問的なものではなかった)。それでは歴史上、誰が最初にこの語の意味をはっきりと認識することになるのか。言うまでもなく、ハイデッガーが認識するのである。あるいは、ハイデッガーと共に『存在と時間』の思考に触れることになる、現代の私たちが認識するのである。
 
 
 かくして、ハイデッガーによるならば、『存在と時間』を読むことによって私たちは、この現代に至って初めて明かされるところの、原初の内奥に触れるのである。原初は、いわば自らが他でもない原初であるということの意味に気づいていなかった。現代を生きている私たち(ここには2021年の現在を生きている、狭い意味での「私たち」も含まれる)こそが、今のこの時代になって初めて、真に原初的なものであるところの原初へと、思考によって突き入ってゆくのである。
 
 
 
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 このような、場合によってはほとんど発狂したものとも受け取られかねないような特異な時間意識が『存在と時間』の、そして、それ以降のハイデッガーの全思索を貫いている。彼によれば、原初の方こそが私たちを、私たちの行く先で待っているのであり、原初は私たちの将来に、既に突き入ってしまっているのである。私たちは、そこにこそ到達しなければならないのだ。
 
 
 したがってここから、ハイデッガーの思索を古代ギリシアへの単なる回帰とみなす見方が、どれほど表面的な仕方でしか事の実相を捉えていないかもわかる。戻ってゆくどころか、むしろ、彼は究極のところでは、来たるべきもののことしか考えていないのである。来たるべきものとは、いまだかつて一度も垣間見られたことのないものであり、未曾有のものである。つまりは、それこそが原初なのであり、かつて一度もやって来たことのない「別の原初」なのである。
 
 
 思考は原初へと遡ってゆくことによって、来たるべき「別の原初」の方へとそのまま突き抜けてゆく。このような根本直観はおそらく、少なくとも潜在的な仕方ではすでに『存在と時間』を書いていた頃の時期から、ハイデッガーの思索を突き動かしていたのであろう。ギリシアをさえも突き抜けて、最後にはもはやギリシアとすら呼びえないところ、言葉によっては名づけえぬ場所へと思索によって到達することこそが、彼が一貫して追い続けた生涯の目標であった。
 
 
 このことはひるがえって私たちに、哲学者たちが過去のものにかくも固執し続けるのはなぜであるのかを教えてくれる。彼らは、なぜかくも執拗にかつて書かれたものを読み、すでに過ぎ去ってしまったように見える時代について考え続けるのか。それは言うまでもなく、彼らが来たるべきもののことしか考えていないからである。いまだかつて一度もやって来たことのないもの、それにも関わらず、そこへと向かってゆくことを私たちに要請しているものの方へと突き進んでゆくためにこそ、彼らは読み続けているのである。哲学の務めとはひたすらに将来的なものであり、それゆえに、その行程は遡行的である。未曾有のものへの扉は、最も深い仕方で過去を受けとめた人間によってこそ開かれるのである。