イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

純粋状態のアポファンシス:言葉の持つ比類のない力について

 
 「語り」について論じるための下準備として、まずは言明、すなわち「このハンマーは重すぎる」のような表現はどのように機能するのかという問いに取り組んでみることにしよう。この問いは、人間存在にとって言語活動が持つ意味という問題に直結しているので、非常に重要なものである。ハイデッガーは言明に対して、以下の三つの意義を割り当てる。
 
 
 ①言明は提示する。「このハンマーは重すぎる」という言明はたとえば、ハンマーという存在者を、その存在者の側から見えるようにさせる。
 
 
 この「見えるようにさせる」働きはハイデッガーの言語論にとって、決定的なものである。ハイデッガーによれば、古代ギリシア人たちが「ロゴス」と呼んでいたものの経験は、存在者が、存在者の側から光り輝くようにして見えるようになるという経験にほかならない。「アポファンシス」とは、まさにこの、見えるようにさせる働きに対して与えられた表現である。提示するものとしての言明のうちには、「アポファンシス的な語り」としてのロゴスのあり方があますところなく体現されているのである。
 
 
 この意味からするならば、言葉の持つ力とは比類ないものである。その力の核心は、これまで見えていなかったものを見えるようにさせること、あるいはより正確に言えば、見えていたはずであるにも関わらず、その途方もなさには気づかれていなかったものを、まさにその途方もなさにおいて露わにすることに存している。言明とともに世界は再び輝き出すのだが、その輝きは、世界がもともと持っていたはずのものなのである。アポファンシスの働きが、人間を、今まさにゼロから創造されつつある世界にふたたび連れ戻すというわけである。
 
 
 
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 私たちの日常生活においては、言葉が持つこの比類ない力にはいつでも覆いがかけられてしまっていて、目立つ仕方でこの力が発揮されることはほとんどない。言葉は単なる情報伝達の媒体として、生活を成り立たせるための道具として、「便利に」用いられ続けている。これはこれで、言葉の持つ重要な側面ではあるけれども、そのことによって私たちが、言葉そのものの持つ途方もない力に対する感性を少しずつ失っていってしまうことは確かである。
 
 
 哲学や芸術の言葉はいわば、たえず失われつつあるこの力をその度ごとにふたたび解放するのである。哲学や芸術は言葉をその実用的な枷から外して、いわば純粋状態のアポファンシスとして顕現させる。「見よ」と、詩人は言う。私たちは、何も見ていないからである。人間はひょっとしたら、生きてすらいないのではないだろうか。命を危険にさらすような企てのうちで跳躍がなされ、詩人は、息も詰まるほどの限界状況の中から言葉を掴みとってくる。言葉とともに取り戻されるのは、ルーティンのうちで失われ、朽ち果てるようになっていた私たちの生そのものなのである。
 
 
 『存在と時間』のハイデッガーにとっては、この「見えるようにさせる」働きこそが、現象学という表現のうちに賭けられているものにほかならなかった。現象学とはギリシア語の表現に連れ戻すならば「レゲイン・タ・ファイノメナ」であり、だからこそ、その指し示すところはあの「アポファンシス」を中に含みこんだ「アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ」なのであると、ハイデッガーは言う。この意味で言うならば、すべての哲学はなるほど確かに現象学である。言葉を言葉として取り戻すこと、「世界は言葉を必要としている」とまっとうに主張し続けることは、哲学の変わらざる務めである。アポファンシスの経験、これまで見えていなかったものが、眩しすぎるほどに光り輝いて見えるようになるという経験の衝撃を味わってしまった人はもはや、哲学の営みから離れることは決してできないであろう。