イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

無知の知と、粘着質の性格

 
 論点:
 哲学者は、自分自身が本質の真理について無知の状態にあるという事実を、忘れてはならないだろう。
 
 
 命題の真理(これについては、6月4日〜12日の記事で論じた)のレベルでは、今日、知者になる、あるいはそれと同等の知識を手に入れることは、誰にとっても難しくなくなっている。知らぬものとてない事実ではあるが、GoogleWikipediaさえあれば、自然科学の知識であろうと歴史の細部であろうと、他のどんなコンテンツであろうと、かなり細かいところまで即座に知ることができるからだ。
 
 
 しかし、自然科学の専門家たちが持っている、自然現象や数式それ自体に対する理解の深さや、歴史家たちの歴史の捉え方の深さといったような類の知については、ちょっとやそっとググったくらいでは身につくものでないことは言うまでもない。哲学についても事態は同様であって、一を聞いて十を知る域にまで達した筋金入りのプロフェッショナルならともかく、初学者がウィキペディアを読んだだけである哲学を十分に理解するということは、ほとんど想定しがたいであろう。
 
 
 ここで問題になっているのはたとえば、「非線形科学とは何か」「革命とは何か」「超越論的観念論とは何か」といった問いに対する答えとなるような知であり、つまりは本質の真理なのである。本質の真理を探求し、学んでゆくというのは、非常に膨大な時間を必要とする果てしのない過程なのであって、一人の人間がそのすべてを十全に知り尽くすというのは望むべくもない。われわれ人間は、たとえどんな道を歩むにしても、死ぬまで無知という宿命を免れることはできないものと思われるのである。
 
 
 
哲学 Google Wikipedia 非線形科学 革命 超越論的観念論 フッサール 郵便ポスト
 
 
 
 ここから、われわれが哲学を探求するにあたっての一つの原則が導かれてくる。
 
 
 哲学探求の大原則:
 哲学の探求においては、何事も当たり前のものとして受け止めてはならない。
 
 
 「見慣れている」「見知っている」という感覚はいわば、哲学の宿敵であるともいえる。哲学者には、退屈している暇はないのである。たとえ何かに退屈してしまったとしても、その退屈を即座に「退屈とは何か」と問うための機会とせねばならず、当たり前のことばかりを言い立てているように見える言説を前にしても、刮目して「当たり前とは何か」ということの本質を問う、等々でなければならない。
 
 
 フッサールが自分の講義の中で、何ヶ月にもわたって郵便ポストの見え方について延々と語り続けて生徒がドン引きしたというのは、哲学史を彩るイルなエピソードの数々の中でも、筆者が大好きなものの一つであるが、最近ではますます、ああ、哲学とはこれなんだなと感じさせられている。いや、何がなんでも当たり前すぎる事象を前に粘り続けねばならぬというわけではないのかもしれないが、真理をめぐってああでもない、こうでもないと延々とねちねち考え続けるというのは、この上なく楽しいことである。粘着質の性格というのは、それが原因で隣人に迷惑をかけてしまう恐れがあることは確かであろうが、こと知ることにおいては、ねちねちすればするほど実りも大きいというのは、これまた否定することのできない事実なのではないかと思われるのである。