イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理は二つ折れとして与えられる

 
 真理の定義:
 真理とは、あるものが、それがある通りにあるという、そのことである。
 
 
 上の定義について、あと何点か付け加えて論じておくこととしたい。
 
 
 上の定義には、「それがある通りに」という規定が含まれている。このことは、この定義のうちにはここ一ヶ月で探求してきた存在の真理の次元だけではなく、すでに以前に論じた本質の真理の次元も含まれているということを意味する。
 
 
 あるものはあるというだけではなく、「それがある通りに」ある。「それがある通りに」とは「しかじかのものとして」、すなわち、何らかの規定をもった特定のものとして存在しているということである。このことは、存在者は「〜がある」という観点から語ることができるだけではなく、「〜である」(ex.「人間である」「鷲である」)という観点からも語ることができるということを意味する。
 
 
 この世界におけるものや出来事は、「〜がある」と「〜である」が奥深いしかたで一つとなって存在している。存在者は、存在(「〜がある」)と本質(「〜である」)の二つ折れとして存在する。すでに以前の連作論考ではわたしという存在について、それが二つ折れの与えとして与えられることを論じたけれども(『わたしとは何か』)、この二つ折れの契機は、この世界のうちに存在するあらゆる存在者の内奥において働きつつ、その存在者を存在者たらしめていると言えるかもしれない。
 
 
 
真理 ある 二つ折れ 自然法則
 
 
 
 かくして、「あるものが、それがある通りにある」とは、「存在者が、存在と本質の二つ折れとして存在する」と言い換えることもできそうである。そして、この定義のうちには、人間が知ることのできるあらゆる知が含まれていると言えるように思う。
 
 
 たとえば、自然法則とは、物理的・生物学的・化学的等々といった観点において見られた存在者が「どのようにあるのか」を数学的方法と実証を介して捉えたものにほかならない。人間による法則の発見は「どのようにあるのか」という問いにたいして「このようにある」を、すなわち、特定の数的・概念的規定のもとに存在する存在者のあり方を明らかにしていると言えるだろう。
 
 
 自然科学も含めて、私たち人間がこの世界において知ってゆくさまざまな物事は、そのほとんどが「それがある通りに」あるいは「このようにある」に、すなわち、本質の真理の次元に関わっている。本質の真理のうちには生の尽きることのない豊かさが含まれているのであって、生きるとは、わたしが出会うさまざまな人やもの、出来事の「何であるのか」を知ってゆくことであると言えるかもしれない。
 
 
 しかし、真理なるものは本当はただ本質の真理として存在しているのではなくて、存在の真理と本質の真理の分割不可能な二つ折れとして存在している。すなわち、すべての「〜である」は「〜がある」によって裏打ちされ、支えられているのであって、人間が何事をかを知ることは、「〜がある」がすべての「〜である」の内奥において働くことによって初めて可能になるのかもしれないのである。「〜である」のうちに働く「〜がある」をそれとして見て取ることのうちに、すなわち、真理をそれがある通りに見て取ることのうちにこそ、哲学という営みの務めがあると言えるだろう。