イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「からだから心臓が引き千切られるのだ」:ハイデッガーの手紙から

 
 今回の記事から真理論に入る予定であったが、当該箇所である『存在と時間』第44節を読み直していたところ、おそらくはハイデッガーが全精力をもって書きつけた入魂の箇所であることもあって、読解に集中していたら精神が崩壊しかけてしまった……。無理をして体に負荷をかけるとひどいことになりそうなので、論じるのは次回からということにして、今回は代わりに、『存在と時間』出版直前の時期にハイデッガーが書いた手紙の一節を紹介することにしたい。
 
 
 哲学者にとって、自分自身の思想を形にするために机に向かって言葉と格闘することは、時に、想像を超えるほどの苦行となるもののようである。1926年1月10日付けの手紙でハイデッガーは当時恋人関係にあったアーレントに宛てて、こう書いている。
 
 
 「そして、いっさいの人間的なものから離れ、あらゆる関係を絶ってこの途につくことは、創造という観点から見れば、人間の経験としてぼくの知るかぎりもっとも壮大なものだしー具体的な状況としてみれば、およそ遭遇しうるもっとも非道なものだろう。完全に意識を保ったまま、からだから心臓が引き千切られるのだ。」
 
 
 はじめてこの文章を読んだ時には、「言いたいことはわかるが、さすがに大袈裟なのではないか……」と思っていたが、今では、以前よりはハイデッガーの言わんとするところがわかるようになった気もする。
 
 
 おそらくはどんな仕事でもそうなのではないかと思うのだが、何か本当にしっかりした仕事を成し遂げようと思うならば、待っているのは楽しいことばかりではない。それにしても、「からだから心臓が引き千切られる」とは!筆者自身も、さまざまなことを振り捨てて自分のエネルギーを哲学に傾注しているつもりではあるが、二十世紀のドイツ・アカデミズムの世界の人々の学問へと向かう気概は、二十一世紀初頭を生きている私たちからは測りがたいものがあるのではないかと思う。その強者たちの中でも猛者中の猛者であるハイデッガーともなると、まさしく「心臓が引き千切られるほど」の集中のうちで仕事をしていたと言っても、それほど誇張にはならないのかもしれない。
 
 
 
 存在と時間 ハイデッガー アーレント 存在の超絶 デカルト レヴィナス ジル・ドゥルーズ
 
 
 
 個人的な事情にはなってしまうが、筆者は2019年末ごろから、自分の哲学はおそらく「存在の超絶」の理念のもとに追求されることになるのではないかと考えはじめ、その方向性で模索を続けてきた。さまざまな論点の踏査を経て、真理問題、他者認識の問題、超絶の概念を介してのデカルト省察の反復と続けてきたが、その探求は今年の4月末ごろから、また新しい段階に入ったのではないかと思う。
 
 
 今の筆者は、やがて再びたどり着くべき「存在の超絶」の哲学の輪郭を思い描きながら、直近の時代を生きた先人たちの仕事に、正面から向き合わなければならない。具体的に言うならば、ハイデッガーレヴィナスである。二十世紀の哲学の成果で、この時代にまで引き継がなくてはならないものがあるとすれば、それはまずもって、この二人の仕事のうちにこそ見出されるのではないか。もちろん、他の人々にはまた違った意見があることであろうが、少なくとも筆者としてはこの二人(あるいは、ここにジル・ドゥルーズを加えた三人)をもって「二十世紀を代表する哲学者たち」としてもそれほど的外れにはならないのではないかという考えは時を経るとともに、ますます確信に変わりつつある(もちろん、彼ら以外の哲学者たちが成し遂げた仕事で重要なものも多々あることは、言うまでもない)。
 
 
 当面は、この二人の巨人の仕事の成果と向き合いながら、「存在の超絶」について論じ直すための土台を形づくらなければならないだろう。やるべきことは多々あるが、まずは先人が打ち立てたものをしっかりと受け止めるところからである。今回の記事の後半は個人的な事情を書きつらねるだけになってしまったが、次回からは再び『存在と時間』の読解に戻る予定である。「からだから心臓が引き千切られる」とはまことに恐ろしいかぎりではあるが、今さら後ろを振り返ってみてもそこには何もないことは確かなので、覚悟を決めつつ、引き続き日々の課題に専念してゆくこととしたい。