イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

贈られてきた小包、あるいは関係の不可逆性について

 
 補助的考察を続けよう。
 
 
 論点:
 ある人がどのような人間であるのかは、その人と関わってみなければわからない。
 
 
 人との関わりというのは、喩えるなら、包装された上で贈られてきた小包のようなものである。贈られてきたものの大体の形はわかるけれども、そのものが何であるかは、開けてみるまでわからない。
 
 
 中に入っているのは懐中時計かもしれないし、花束かもしれないし、ある場合には……爆弾かもしれない。経験を積んでくると大体の当たりらしきものはつけられるようになってはくるけれども、事柄の性質上、中身の詳細を前もって知ることはできないようになっている(来るべき他者の認識論は、この言いようもなく奥ゆかしい構造を損わないものでなければならないだろう)。若い世代の方々には、「要するに、一回限りのガチャのようなものである」と表現すればここで言いたいことも一瞬で通じそうなものではあるが、このブログの筆者は人間存在の尊厳をスマホゲームのコンテンツの水準にまで貶める無粋さとはあくまでも無縁な生粋のジェントルマンであるゆえ、このような喩えをおおっぴらに用いることは差し控えることとしたい。
 
 
 ともあれ、ある人間の人柄は、付き合ってみないとわからない。このことは、こと人間に関しては、合理的な計算に基づくリスクマネジメントを行うことが原理上不可能であるということを意味する。人との出会いは投資や資産運用よりも、賭けや旅行に近いと考えた方が実情に当たっている。ルーレットを回してみなければ、賭け金が何倍、何十倍にもなって戻ってくるのか、それとも全てをフイにすることになるのかもわからないし、飛行機に乗ってみてからでなければ、自分が果たしてこれからどの国のどの土地に着くのかもわからないという仕組みになっている。真っ青な海に囲まれた南国の島に着いたと思ったら、実は国際法の網の目をかいくぐって作られた捕虜収容所だったというような目には、くれぐれも遭いたくないものであるが……。
 
 
 
来るべき他者 アディアフォラ 善悪無記 関係の不可逆性
 
 
 
 もっとも、自分の方で気をつけていさえすればそれなりに事故は防げるものでもあろうから、あまり疑心暗鬼にならない方が人生の限りない豊かさを享受する上でもよいのではなかろうかという気もしないでもない。しかし、この論点が真に重要なものとなってくるのは、これから誰かと出会うという場合よりも、すでに後戻りできない仕方で親しくなっている相手に関する場合であるように思われる。
 
 
 すでに深く関わってしまった相手とは、当たり前のことではあるがすでに深く関わってしまったのであるから、その関わりを取り消すことはできない、あるいは、取り消すことは簡単ではない(覆水は盆に返らない)。
 
 
 しかし、私たちが深く関わってしまった相手は、今も当のその相手自身であることをやめてはいないのだし、今後もますます相手自身になってゆくことをやめないであろう。よくよく考えてみるとつくづく恐ろしい真理ではあるが、いかなる場合においても人と人との関係性の進展というのは何をどうやっても不可逆なのであって、私たちがすでに関わってしまっている相手がこの後にどのような人間として私たちの人生に関わってくるのかは、いい意味でも悪い意味でも予測不可能である。何事も前向きに考えた方がよいのは確かであるが、哲学の目的は物事をそれ自身のあり方に従って知ること以外ではありえないゆえ、あえてアディアフォラ(善悪無記)な事実としてそのまま書きとめておくのが知的誠実性の観点からして適当ではないかと思われる次第である。