イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言葉と実存

 
 言語に関する省察を、さらに進めてゆくことにしよう。
 
 
 論点:
 人間は言葉によって、互いの実存について語り合う存在である。
 
 
 人間の言葉は、この世界のうちに存在する物や、起こっている出来事について語るというだけではない。言葉は、その言葉を語る人間自身がどのように生きているのか、そのあり方をも語るのである。
 
 
 たとえば、SNSのような身近な例を考えてみるにしても、そこで語られているのは具体的な情報だけではなく、究極的には具体的な情報や他者の発言に対するコメントなどを通して、発信者がどのような人間であるのか、そのあり方そのものでもあると言えるのではないか。この点からすると、「人間存在は自らの実存に関わる」というのは哲学の領域においてのみ語られる、何か高尚な本の中のテーゼなどではなく、むしろ私たちの卑近な日常の一刻一刻をも形作っている、その構造を言葉で言い表したものにすぎないとも言えそうである。
 
 
 人間が「それに対してあれこれと関わることができ、つねになんらかのしかたでかかわっている存在自身」(『存在と時間』)。それはほとんど、実存という言葉をもってしか言い表すことのできない事柄であると言えるのではないか。この点からすると、キルケゴールの極めて先駆的な仕事から一世紀近くを経たのちにこの語を術語化したハイデッガーの功績は、いまだに過去のものになっていないと言わざるをえない。実存という語は日常の言葉としても、また、本当は哲学の語彙としても、その有効性を今日もなお失っていないものと思われるのである。
 
 
 
 キルケゴール ハイデッガー 人間もどき Hommelette 実存
  
 
 
 人間は自らの実存について、互いに語り合う。そして、そのように語り合う中で、互いに承認しあう。
 
 
 これは、人間が存在しているところであればほとんど全ての場所で行われている、日常的な風景である。このような語り合いと承認が行われることがなければ、人間は自らの「人間であること」の意味を見失って、生きているのか死んでいるのかが自分でもわからない「人間もどき Hommelette」の状態へと落ち込んでしまうことだろう。私たちが日常の中で行っているコミュニケーションは本当はこのような「人間としての生命維持」にも関わっているのであって、この点からしても「人はパンだけで生きるのではない」という言葉には、疑いようもない真理性が認められると言わざるをえないのである。
 
 
 こうした実存論的な事実に目を向けて見るとき、言葉は結局のところ言葉にすぎず、パンに比べれば何物でもないといったような見方は、単に事実の上から見ても実情に合致していないということがわかってくる。言葉は確かにパンの代わりにはならないけれども、パンもまた、言葉の代わりには決してならないのである。言葉が人間にとって、命の次元にさえも関わるというこの事実のうちに、単に「生存」するのではなく、「実存」する存在としての人間のあり方が端的に示されている。私たちはこのような観点から、言語活動なるものの本質を、実存との関わりのうちでさらに探ってみることにしよう。