イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

孤絶が事実として破られるとき

 
 論点:
 他者の認識に関する事実的な与えは、もしその与えが本当になされるのだとすれば、その時には、モナドの孤絶を中断させずにはおかないのではないか。
 
 
 ライプニッツの表現によるならば、「モナドには窓がない。」すなわち、認識の主体としてのわたしはある意味で、わたしという名の「外部のない内部」の外に出ることは決してなく、他者であるあなたとも、いわば決して越えることのできない壁によって隔てられている。
 
 
 私たち同士の間を隔てているこの形而上学的な断絶の意義を小さく見積もって、たとえば「同じ人間なのだから、分かり合えるはずだ」と安易に想定することは、おそらくはコミュニケーションそのものの挫折という結果をいつかは招いてしまうことだろう。人間と人間とを隔てている目には見えない壁は、決してその存在を無視できるようなものではない。わたしとあなたがこの上なく深く理解しあえたと思った時でも、その理解は実は、それよりもはるかに深いところに存在する互いの違いに対する盲目の中で与えられた「幸福な誤解」でしかなかったということも、十分にありうる。
 
 
 しかし、もしもわたしの生が本当はわたしという孤絶への閉鎖でしかありえず、わたしはわたし自身の外へと決して出てゆくことができないのだとすれば、その時には、わたしが心を持った一人の人間として生きているということに、どんな意味があるのだろうか。他者であるあなたと出会い、共に時間を過ごしたとしても、あなたについてのわたしの認識が鏡に映ったわたし自身を見ることにすぎないのだとすれば、わたしとあなたが出会うことに、果たして意味があると言えるのだろうか。
 
 
 
モナド ライプニッツ 形而上学 事実的な与え 他者の超絶
 
 
 
 これに対して、事実的な与えというイデーは認識の主体であるわたしに対して、次のような可能性を提示するものである。
 
 
 事実的な与えの可能性:
 「事実的な与え」は、他者であるあなたについての認識が、わたしに対して、あなた自身がそうある通りの姿において与えられるという可能性を提示している。
 
 
 他者の超絶という事態がある以上、このような与えが現実に存在すると前もって確言することは決してできない。事実的な与えは、あくまでもその度ごとに事実的な出来事として与えられるほかない与えなのであって、しかも、仮のそのような与えが本当に行われるとしても、その与えが「そうある通りの他者自身の姿」を与えるものであるということを、絶対的な確実性と共に保証することは決してできないことは言うまでもない。
 
 
 しかし、もしもそのような与えが与えられることがもしあるのだとすれば、その時には、モナドとしてのわたしの孤絶が事実として破られることになるのではないだろうか。それはいわば、わたしの魂のうちへのわたしの閉鎖は一切変わることなく存続したままで、あたかも可視的なものを超えた光が暗闇のうちに射し入ってくるかのようにして、あなた自身であるところのあなたの姿が示されるような経験である。哲学は、言葉のその本源的な意味において形而上学的なものであるこの経験について、その内的な構造と驚異にふさわしい語彙と文法とを探し求めなければならない。