イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

聞かれないはずの言葉が、聞き取られるならば…。

 
 論点:
 言葉の経験とは、本来は伝わらないはずのものが伝わる経験なのではないだろうか。
 
 
 他者であるあなたが、言葉を語る。その時にそこで起こっているのは、本来ならば決して起こらないはずの出来事なのではあるまいか。
 
 
 あなたの「わたしはある」は、わたしには深く隠されている。わたしはいくらあなたと共に時間を過ごしたとしても、あなたのコギトを直知することは決してないだろう。しかし、それにも関わらず、あなたが言葉によってわたしに語りかけている時、わたしはいわば、超絶が自らを明かさないという仕方で明かすという逆説的な経験に立ち会っていると言えるのではないか。
 
 
 もしそうであるとすれば、それとは逆にわたしが他者であるあなたに向かって言葉を語る時には、わたしは、本来は決して伝わらないはずのものを「見えない相手」に向かって伝えようとするという狂おしい企てに身を投じているということになる。
 
 
 わたしが深い淵の底に落ちてゆき、海の波とうねりがわたしのはるか上を越えて行ったとき、世界には誰もいなかった。わたしが苦しみのうちで、朽ちてゆく心の中から絞り出すように語るとき、わたしはほとんど、聞かれているのかいないのかもわからないままに語る。苦しいという、伝わらないはずのその感覚を、わたしの声が聞こえているかもしれない誰かに向かってつぶやきかける時、その言葉ははたして聞き取られるのだろうか。その誰かは、他者である限りの他者として何らかの言葉をわたしに対して語り返すだろうか。
 
 
 
わたしはある 哲学 コギト
 
 
 
 おそらく、この世界のうちで語られている言葉のほとんどは、聞かれることがないまま消え去ってゆくに違いない。人間は、他者の言葉に耳を傾けることのない生き物である。私たちは私たちを超絶する隣人たちに取り囲まれながらも、私たち自身という夢の中でまどろむようにしてこの世での日々を生きている。
 
 
 従って、真に驚くべきは言葉が聞かれないことではなくて、言葉が聞き取られることがありうるという、そのことの方である。言葉はわたしからあなたに向かって、あるいは、超絶そのものであるあなたの方から、わたしに向かって語られる。言葉はその時にはいわば、決して乗り越えることのできない隔たりを越えるようにして届けられると言わざるをえないのではないか。
 
 
 隔たりの踏破というこの出来事そのものは、言語の通常の使用の範囲においてはほとんど記述することができないのであって、哲学の伝統においても、たとえ言語そのものについて考がなされる場合であっても、そこに目が向けられることはきわめて稀であったと言わざるをえない。にも関わらず、言葉の経験を本当の意味で捉えることは、この出来事をそれそのものとして思惟することなしには不可能である。哲学的精神は、言葉が意味作用を持つという事実のみならず、言葉が意味作用を通して、意味作用を超えるものにも関わっているという形而上学的な驚異の方にも目を向けるのでなければならないだろう。