イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言葉の経験

 
 論点:
 他者が他者自身の姿においておのれを告げる経験とは、もしもそのような経験がありうるのだとすれば、まずもって言葉の経験であるのではないだろうか。
 
 
 他者は顔の表情や身ぶり、そして行為によっても自身を語っている。しかし、人間である限りの彼あるいは彼女が自身の内部性を表出するのは、何よりも、言葉を語ることによってなのではないか。
 
 
 他者であるあなたが、唯一的な認識の主体であるわたしに向かって言葉を語る。私たちが日々数限りなく繰り返しているこの場面のうちにはおそらく、哲学的精神がどれだけ注意を払っても払いすぎることはないほどの驚異と神秘がある。
 
 
 わたしには、わたしの意識を超えているあなたの「わたしはある」を直接に知ることはできない(他者の超絶)。しかし、そのような超絶に他ならないあなたが、音の震えや文字の連なりを通して、わたしにあなた自身の存在を告げ知らせる。ここにおいては見えないものが、見えるもの、聞こえるものを通して自身を示そうとしていると言えるのではないか。自然学的なものを超えて形而上学的なものが、世界内的なものを超えて真に人間的なものが姿をあらわすということがもしもあるのだとすれば、それはまず何よりも、言葉の経験を介してであると言うことができるだろう。
 
 
 
他者の超絶 形而上学 エマニュエル・レヴィナス フッサール 論理学研究 全体性と無限 存在の超絶
 
 
 
 哲学的探求において言語について考察するとき、まず注目されるのはおそらく、それが意味の分節化を行い、情報の理解とその伝達を行うという、その主体内的機能であろう。自然科学の対象である限りの言語が私たちに対して示すことになるのも、このような機能に付随する諸特徴に他ならないといえる。
 
 
 しかし、言語活動という事象は疑いようもなく自然科学的探求の対象になりうるものであるのと同時に、その探求の範囲を決定的に超え出るものにも不可避的に関わっているのではないか。そして、このような「世界外的な」関わりが問題となるその局面においては、分節化の働きを通して、その働きをも超える形而上学的なものが姿を現していると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 言語が持つこのような側面の重要性を決定的な仕方で最初に指摘したのは、エマニュエル・レヴィナスである。フッサールの『論理学研究』(1901年)が、近代哲学の論理が極限にまで精緻化されていったところに成り立つ言語についての省察を提示していたのだとすれば、彼の『全体性と無限』(1961年)において切り開かれた領野は、私たちを決定的に未知なるものの方へと導いてゆくものであると言えるのではないか。私たちの探求も、レヴィナスの考察から多大な示唆を受けつつ、言葉の経験を、「存在の超絶」が逆説的な仕方でおのれを現す本源的な経験として記述するよう努めてみることとしたい。