イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言語活動と超絶の次元

 
 論点:
 心の内側に語らずにはいられない言葉が溜まってゆく時、超絶の次元が立ち現れてくる。
 
 
 言語活動の本質について考察を深めるために、さらに考えてみることにしよう。認識の唯一的な主体であるわたしが世界のうちで喜びや苦しみといったさまざまな感情を体験する時、わたしはその自然な帰結として、そのことを誰か他の人間にも伝えたいという衝動をも感じることになる。
 
 
 人間にとっては剥き出しの孤立した感情なるものはほとんど存在せず、感情なるものはその本性から言って、特にそれが強いものであればあるほど、内側から溢れ出していって分かち合われることを求めるものなのである。しかし、感情が主体にとっての外部そのものである他者へと伝達されようとするまさにこの局面において、言葉なるものの本源的な性質が立ち現れてくる。
 
 
 わたしが感じている喜びや苦しみは、人間ならば誰に対してでも表出できるといったようなものではない。喜びは、その喜びを共に自分の喜びとして分かち合ってもらえる相手に打ち明けるのでなければ、冷たい反応によって応じられるだけかもしれない。苦しみは、たとえそれが死ぬほどに心を蝕むような苦しみであったとしても、同じような痛みを知っている人にでなければ理解されることがないかもしれない。語らずにはいられないものがあるとしても、人間には、それを語ることのできる相手が存在しないということがありうるのである。
 
 
 
 デカルト フッサール 論理学研究 内的独白
 
 
 
 病んでいる人は、彼あるいは彼女が感じている苦しみを苦しむだけではなく、その苦しみを聞いてくれる他者が存在しないという苦しみをも苦しむ。おそらく、痛みなるものの最も致死的な部分は、このような他者の不在というモメントのうちにあるのではないか。
 
 
言葉の経験は、意味作用の次元と超絶の次元という、二つの次元が交差するところに成立する。前者を後者に還元することもできなければ、後者なしの前者を考えることも、本来はできない。
 
 
哲学の伝統はこれまで多くの場合、内的独白の経験を特権的なモデルとすることによって、言語の本質を意味作用の次元において捉えようとしてきたように思われるけれども(この事態は特に近代以降、デカルトによってその発想そのものが改めて正当化され、フッサールの『論理学研究』においてその厳密な表現を獲得するに至った)、内的独白はあくまでも、超絶の次元が一時的に遮断される特殊な経験の一様態にすぎないのではないか。超絶への関わりは、その期限付きの中断としての独白の経験をも含めて、言語活動の本源的な構成要素をもなしているのではないだろうか。
 
 
言葉なるものがまずあって、次にそれを伝えたいと思うというのではなく、言葉とは、そもそもそれを誰かに伝えるという契機を欠かすことのできないアプリオリとして抱え込んでいるのではないか。独白の時代、一人では抱え込むことができない致死的なものをネットワークの海に投げ放つことが可能になってしまった時代において言語活動の本質を超絶の次元において問うことは、この時代における人間の人間性をその根本において問い直すうえで不可欠なことなのではないかと筆者には思われるのである。
 
 
 
 
[意味作用の次元については今年の8月25日から9月6日付けの記事においてすでに一通りの考察を加えているので、関心のある方はそちらも参照していただければ幸いである。]