イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

理解と無理解のあいだで

 
 問い:
 言葉を語っている他者のうちで行われている意味作用は、認識の主体であるわたしに対して十分に透明になっているか?
 
 
 注意しなければならないのは、コミュニケーションの透明性という問題については、「透明に見えること」と「本当に透明であること」との間には限りない隔たりが存在するという点である。
 
 
 わたしが他者であるあなたの言っていることを十分に理解していると思っている時でも、そのことは単に、その他者のパロール話し言葉)が、わたしにとって謎を含んでいないということを意味するにすぎない。そうした理解はいわば、海面から突き出ている氷山の一角を見て、その氷山全体の大きさを判断するといったような誤りを含んでいるかもしれないのである。
 
 
 この点については、「その他者は何を言っているのか」という点を気にするだけでなく、「その他者はなぜそのことを口にしたのか」という点にも注意を向けることは一つの助けにはなりそうである。つまり、わたしに対して提示される言葉がわたしに対して示す意味作用だけではなく、わたしを超絶する他者からなぜ他でもないその言葉が発されたのか、その発話の起源を問うのである。このような点に注意を向けるとき、その人は、現れるものの領域を満たしている光に目を眩まされることなく、その奥にある、近寄りがたい「光ならざる光」の領域の存在を予感しながら他者の言葉に耳を傾け始めているということになるだろう。
 
 
 
パロール 話し言葉 超絶 コミュニケーション カント ハイデッガー
 
 
 
 従って、言葉と言葉を介したやり取りにおいては、初発の段階においては相手の言っていることの意味がわからない「不透明な会話」の方が、最終的には本当の透明さにたどり着く可能性も高いのかもしれないという逆説的な結論も出てくることになる。なぜならば、相手の言っていることが純粋に意味不明であるような場合には、それを聞いている人間の方も(その人に、相手の言っていることを聞き取ろうとする意志があるならば)相手を理解することに向かって努力するだろうからだ。
 
 
 超絶が関わってくる際には言語の通常の使用もかき乱されることになるので、通り過ぎられる透明は真の透明ではなく、むしろ不透明こそが本当の透明さへの鍵を握っているということにもなってくる。わかりやすい言葉というのは、その点からすると実は非常に危険なのであって、宇宙人や異次元存在並みとまではゆかなくとも、外国人の言葉くらいの言葉の難解さは、コミュニケーションにとっては本当は望ましいのかもしれない。
 
 
 とはいえ、人間は大抵の場合、難解な言葉が相手から発される時には、それを理解しようと欲するよりは理解の試み自体を放棄する方に傾きやすいものである。従って、カントやハイデッガーのような哲学者が情熱の限りを尽くして自身の哲学を聴衆に対して開陳するとしても、途中で寝落ちする人間の数をゼロにすることはおそらく不可能であろう。人間が口から発する言葉は、その本性からして決して相手には理解されないものと思って前もって覚悟しておいた方が精神衛生の観点からすれば望ましいものと思われるけれども、文字通りの無理解を確信してしまうとそれはそれで限りない憂鬱と絶望に捉われることは避けがたいので、この点については、適正なバランスを取るのが非常に難しいところではある。