イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

キルケゴールからハイデッガーへ:実存のリアルは、「可能性へと関わる存在」として人間に差し迫っている

 
 ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、「死へと関わる存在」をめぐる議論の方へと戻ってゆくことにしよう。
 
 
 「生をはなれることを医学的-生物学的に探究することで、存在論的にも意義を有しうる成果を獲得することが可能であろうが、それは、死についてのなんらかの実存論的解釈に対する根本的な方向づけが確保されている場合なのである。[…]死の実存論的な解釈は、いっさいの生物学と生命の存在論とに先だっている。」(『存在と時間』第49節)
 
 
 ハイデッガーは、人間存在にとって「死の現象」が持つ意味を探求するためには、生物学のような自然科学の成果は、間接的な仕方でしか役に立たないと考える。なぜならば、人間にとっての死とは「終わりへと関わる存在」として、もはや世界内に存在しなくなることの可能性を指し示すものとして関わってくるものに他ならないからである。
 
 
 ここでのキーワードは、「可能性」である。すでに見たように、人間にとっての死とは生の終わりをしるしづける「最後のその瞬間」を指すだけでなく、生のあらゆる瞬間において人間が関わり続けているところの、法外な可能性に他ならないのだった。この法外な可能性、すなわち、存在することの「不可能性の可能性」は、まさしく「可能性」として人間に迫ってくるのであるから、生物学のようなやり方でこの意味における「死」を捉えることには確かに、限界があると言わざるをえないであろう。知としての生物学が役に立たないというのではなく、こと可能性の現象に対しては、それにふさわしい接近のやり方はもっと別な所に存在するであろう、ということである。
 
 
 ここから、哲学書としての『存在と時間』が提示しようとする人間存在の姿が、改めてくっきりと浮かび上がってくる。現存在としての人間は確かに「生き物」でもあり、命を与えられた存在ではある。人間にとっては、「存在する」は「生きている」をも同時に意味しているということもまた、この上なく重要な論点であろう(cf.この論点はハイデッガーというよりも、彼の思索の成果を私たちの時代にあって独自の仕方で掘り下げている、ジョルジョ・アガンベンの思索にとって重要なものである)。しかし、人間が人間であるゆえんをその根源に至るまで突き詰めてゆくならば、生命という理念だけでは、この探求を十分な仕方では行うことができないことがわかってくるのである。
 
 
 人間とは単に生命であるのではなく、「可能性に関わる存在」を生きるという意味において、「実存」する存在者なのでである。死ぬことはかくしてハイデッガーが上で述べていたように、実存論的な仕方でこそ解釈されなければならないのであって、このことが逆に、人間とは実存する存在者であるという根源的な事実を、他のどんな現象にもまして照らし出しているのである。「終わりへと関わる存在」こそが、人間を人間たらしめている、その当のものに他ならないということだ。
 
 
 
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 論点:
 死ぬことの可能性はその根源において、「可能性に関わる存在」を生きる人間の極限的な姿を指し示すものとして、実存論的=存在論的な仕方で探求されなければならない。
 
 
 日常のまなざしは確かに、人間存在をその「可能性」において捉えるといったようなことはほとんどないであろう。可能性なるものは直接的な仕方では目に見えるものではないのであってみれば、そのように不確かにも思えるものが人間を人間たらしめているのであると言われても、日常性の方としては戸惑ってしまわざるをえないかもしれない。
 
 
 しかし、可能性なるものは哲学的に考えてみるならば、ある意味ではこれ以上にリアルなものもないといったような仕方で、人間の実存へと差し迫り続けているのである。現存在であるところのわたしは、本来的な仕方で存在する可能性を持つ存在者として、本当は常に「自分自身に最も固有な生を選択する可能性」の前に立ち続けている。欲望のレトリックは「あれもこれも」という言葉でもって人間を引きさらおうとしてくるけれども、根底のところで人間存在を突き動かしている実存のリアルとはやはり、「あれかこれか」という、避けることのできない二者択一に他ならないのではないか。
 
 
 哲学の歴史において、このような人間の姿をはじめて提示してみせたのは「信仰の騎士」にして「実存哲学の先駆者」であるところの、セーレン・キルケゴールその人である。人間存在を「可能性へと関わる存在」として捉える『存在と時間』の構想は、その少なからぬ部分をこの先駆者にこそ負っているのであって、風のように短い生涯を通して孤独のうちに戦い続けたこの19世紀の「単独者」による探求は、20世紀に至って、哲学の営みそのものを突き動かす巨大な霊感源になっていたとも言えるのである。「死へと関わる存在」の概念を提起する時にハイデッガーが試みているのは、この先人の提起した人間像をふたたび死という巨大な深淵の方へと投げ返しつつ、そこから浮かび上がってくる実存のリアルを、哲学の言葉で掴みとることに他ならない。私たちとしては、この試みが最終的に「死への先駆」という極限点(人間存在にとっては、この「死へと関わる本来的な存在」を決意と共に選択するかどうかが、自らに課せられる最後にして究極の「あれかこれか」に他ならない)へと到達してゆく道行きを、引き続きたどってみることとしたい。