イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『存在と時間』の根本テーゼ「実存の各自性」:「現存在であるところのわたしは、他の誰でもない『この人間』としての生を生きることのうちへと呼び出されている」

 
 「死はそのつど私のものである」という『存在と時間』第47節の表現は、この本自体の道行きを考える時には、きわめて重要な意味を持ってくる。なぜなら、この本の探求が本格的に開始される第9節の時点において、ハイデッガーはすでに、次のように書きつけていたからだ。
 
 
 「この存在者にとってはじぶんの存在においてそれが問題である、当の存在は、そのつど私のものである。[…]現存在の呼びかけは、この存在者が有するそのつど私のものであるという性格にあわせて、つねに人称代名詞とともに、『私がいる』『きみがいる』というように言わなければならない。」(『存在と時間』第9節より)
 
 
 いわゆる「各自性」と呼ばれる論点である。私たちは、探求が「死へと関わる存在」を規定しようと試みている今のこの時においてようやく、この「実存の各自性」が事象そのものに即して真に問題とされうる地点に到達しつつある。
 
 
 すでに見たように、現存在、すなわち人間であるところの私たちの世界においては、「仕事」なるものは公共的な意味を持つものとして、原理的にはあらゆる場合において代理可能な性格を持つものであった。わたしの最も内的な魂の要求から生まれた哲学の書物や芸術作品であっても、それがひとたび公共世界に属するものとして流通しはじめるや、ただちにその固有性を喪失することになる。この意味からすると、作品は「誰にでも接近可能なもの」として固有性を失うことで、はじめて作品として流通することを許されると言うことができるだろう。
 
 
 しかし、すでに見たように、決して流通することも、代理することもできないものがこの世には存在するのであって、それこそが一人一人の人間の「実存」に他ならない。わたしが行う仕事は代理されうるが、「わたしが他の誰でもない『この人間』として、たった一度限り与えられているこの生を生きる」というこのことだけは、決して代理されることができないのである。
 
 
 現存在であるところのわたしは、この生を「内側から」生きている。あるいは、「わたしが存在する」とは、わたしが他の誰でもない「この人間」として語り、考え、呼吸するというそのことなのであって、このことはいわば、決してそれ以上遡ることのできない根源的な事実を構成している。わたしとは、「今」や「ここ」という言葉を真正な仕方で口にすることのできる、唯一の存在者である。わたしとはまことに「現存在」なのであって、ほとんど神秘であるとしか言いようがないような仕方で開かれてくるこの〈現〉を生きている、たった一人の存在者であると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 
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 『存在と時間』における根本論点「実存の各自性」:
 実存することは各自性、すなわち、そのつど「わたしのものである」という性格によって特徴づけられている。そのようなものとして、唯一的な存在者であるところのわたしは、他の誰でもない「いつの日か死ぬことが定められているところの、この人間」としての生を生きることのうちへと呼び出されている。
 
 
 眠りの中から目を覚ますように、わたしはいつでもこの「事実の中の事実」へと立ち戻ってゆくことができる。望もうと望むまいと、わたしは他の誰でもない「この人間」としての生を生きている。わたしとは、単なる意識や主観といった存在ではありえないのだ。『存在と時間』の言葉を用いるならば、わたしの存在とは「世界内存在」以外のものではありえないのであって、つまりは、わたしにとってはたった一つしかないこの世界のうちで死すべきものとして実存している、一人の「この人間」に他ならないのである。
 
 
 デカルトが見出した「思考するわたしは存在する」は言うまでもなく、哲学の営みにとっては決定的な論点である。しかし、上に述べたように、この「思考するわたし」なるものが、単なる「意識」や「主観」といった存在ではありえないということも、それに劣らず重要なことなのであって、わたしとはこの意味から言うならば、わたし自身の「生」に他ならないのである。生であるということは人間の場合、「実存すること」を意味する。すなわち、自分自身の最も固有な存在可能に常にすでに関わりつつ、それを掴みとったり、掴み損ねたりするという仕方で自分自身の「死へと関わる存在」を生きているということを意味するのである。
 
 
 近代哲学の探求は上に挙げたデカルト以来、「思考する主観」という立脚点に依拠することによって遂行され続けてきた。その探求の成果を引き受けつつも、存在の問いへの根源的な回帰を企てる書物であるところの『存在と時間』はこの立脚点そのものに対して、決定的な異議申し立てを行うのである。すなわち、「考えるわたし」はまずもって、意識や主観であるよりも根源的な仕方で、「現存在=自分自身の『死へと関わる存在』を生きている、実存する一人の人間」としてこそ規定されなければならないのではないか。ここには、哲学の歴史がいわゆる「近代」の圏域を踏み越えて真に「現代」と呼びうるような圏域のうちへと突き入ってゆかなければならなかった、まさにその必然性が関わっているものと思われる。私たちは引き続き、この論点の意味するところを探ってみなければならない。