イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ソクラテスからハイデッガーへ:「実存」の語が指し示すもの

 
 「理解」と可能存在、そして、これらの概念との密接なつながりのうちでしか語られえない「実存」の問題はある意味で、古代ギリシアで開始された哲学の伝統の根幹に関わっていると言えるのではないか。
 
 
 ソクラテスのことを考えてみよう。ソクラテスは、それぞれの人間はおのおの自らの魂のあり方を気遣うべきであるという主張のために、命まで賭けた。彼は自分自身の主張を言い表すために「魂(プシューケー)」という言葉を用いたけれども、この意味での「魂」の語の使用は、当時のアテナイの人々にはかなり耳慣れないものであったであろうことは確かである。
 
 
 ソクラテスはいわば、おのれの思想を言い表すために、自分自身がそのうちで生まれ育ってきたところの言語に対して負荷をかけざるをえなかったのである。人間の自己とは身体ではなく、魂である。ソクラテスがそのような信念に基づいて「知恵の愛求」について語るとき、彼は自らが語るべき問題、彼がそのために生き、そのために死ぬことすら惜しくはないと感じていた問題について、何よりもまず、それを語るための言葉を掴みとるところから始めなければならなかったのだ。
 
 
 哲学の営みとはおそらく常に、そうしたものである。哲学者はいつも、何よりも、語るための言葉が欠けているという状況から出発しなければならない。自分自身が何をするために生まれてきたのか、何のために病み、何をこの世に残して死んでゆくのか、それを探し求めるために何を語ればいいのかがはっきりとはわからないままに、彼あるいは彼女は、根源的な失語のうちをさまよわなければならない。すでに存在していた言葉を、これまでとは全く違った意味合いをこめながら用いざるをえないというのは、彼あるいは彼女に課せられた運命である。哲学者は、生きることと死ぬことの意味が賭けられた闘いのうちでもぎ取ってくるようにして、語るべき言葉を掴みとってこなければならないのだ。
 
 
 
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 ソクラテスの生きた時代から二千年以上が経ったのち、キルケゴールという哲学的英雄が現れた。彼はソクラテスが向き合っていた問題、人間はおのれの自己に対していかに向き合うべきかという問題に対して、「実存」の語を用いたのである。「魂」から「実存」へ、徳の探求から、死へと関わる存在によってなされる、命を賭した跳躍へ。それは、問題そのものの大きな変容を伴わずにはいなかったにせよ、時代から時代へと、哲学の根源的な問いかけが引き継がれた瞬間であった。
 
 
 ハイデッガーが『存在と時間』において「実存」の語を鍵概念として用いているのは、彼がこのような歴史の成り行きを踏まえた上で、「実存についての学」という未曾有の学問の企てに着手しようと試みているからである。人間は自らの存在可能にたえず関わり続けながら、存在可能を生きている。ソクラテスが彼の同胞たちに呼びかけることをやめなかったのは、彼には「人間には、今とは違う生き方をすることも可能である」という事実が見えていたからではなかったか。ソクラテスは自らの魂に配慮するという比類のない存在可能を発見することによって、哲学の営みを、人間存在にとっての運命たらしめたのである。
 
 
 したがって、ハイデッガーが『存在と時間』において用いている「実存」の語は現代哲学の専有物であるというよりも、哲学の生命そのものをなす問題に対して与えられた、比較的新たな名称であると考えるべきである。人々がある時期にそれをもてはやし、ついでそれを顧みなくなったという位では到底消し去ることができないほどに、この語の指し示す問題圏は哲学の営みそのものの中核に食らい込んでいる。哲学の営みは、この語を実際に用いるかどうかは別にするにしても、実存の問いを問うことなしには成り立ちえないであろう。それは、人間の生が「わたしはいかに生きるべきか」という問いを何らかの形で問うことなしには真摯なものたりえないのと同様なのである。