イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代における、二重の脅かしについて

 
 懐疑し、省察するわたしを取り巻く歴史的状況について、少し別の側面からも補足を加えておくことにしよう。懐疑において提起される「現実の現実性をめぐる問い」には、この考察を終えたすぐ後に取り組む予定である。
 
 
 ①人間の大地的側面、すなわち、自然的存在である限りの人間は今日、未曾有の規模で進行する数量化と管理化の過程にさらされている。人間のあらゆる活動は情報技術を介してデータ化され、医学的・疫学的・経済的・社会的等々の統計が私たちの生活を、そのあらゆる側面において数値化して記録しつつ、その結果が日常のさまざまな場面にフィードバックされるようになってきている。
 
 
 注意しておくべきは、こうした「人間存在のビッグデータ化」が実用性の面において多大な効用と利便性を発揮する一方で、かつて人間の人間性と呼ばれていたものを避けられない仕方で問いに付しもするという点である。すなわち、「人間とは結局のところ、歩行距離や運動量、消費の嗜好や行動パターンによって類別化され、数値化される存在でしかないのだろうか?」こうしたデータ化の動向の見えざる影響がそれとして意識されることは稀であるけれども、おそらくは見えにくい仕方ではあれ、私たち人間が自身の「人間性」なるものについて抱く観念に影響を及ぼさずにはいないであろう。
 
 
 ②それにも関わらず、人間にはそれぞれ、こうした「数値化された大地性」には決して還元されることのできない唯一性が与えられてもいて、このことが人間に、比類のない自由と同時に限りない絶望の要因をも与えている。
 
 
 すなわち、私たちはそれぞれ唯一的な、否定すべからざる断絶をもって他者たちから隔てられた独在性の主体としての「わたし」なのでもあって、「他の誰からも異なった、特異な人間たれ」という命法は、私たちに幸福を約束するかに見えて、一種の強迫観念のようなものとなって私たちの生存を締めつけてもいるのである。資本による駆り立ての力が、この命法を横領し、利用する。この意味からすると、今や日常生活の全面に浸透するようになった広告の数々を通して私たちに日々送り届けられてくる「クリエイティブに生きなさい」というメッセージは、たちの悪いブラックユーモアでしかないとも言えるであろう。
 
 
 
自然的存在 人間存在 ビッグデータ 大地性 クリエイティブ 強迫観念 剥き出しの生 駆り立て
 
 
 
 まとめ直そう。現代の人間の生は、同時に進行する両極化の過程によって、いわば二重の仕方で締めつけられているように思われる。
 
 
 一方には、数量化と管理によって日々目立たない仕方で発されている「お前はデータでしかない」があって、このメッセージが一人一人の人間を、「人間であることの恥辱」をもって密かに脅かし続けている。大地的人間としての人間は今日、さまざまな管理の技術を通してますます「剥き出しの生」あるいは数値の束に還元されつつあると言えるかもしれない。
 
 
 他方で、本来は哲学や芸術の絶えざる労苦を通して発されるべき「私たちは、私たち自身の生を生きねばならない」が駆り立ての力によって横領され、動物としての人間存在の注意力を的確に喚起するコンパクトな広告となって、商品や情報サービスと結びついた「あなたは特別だ」として発信され続けている。現代において人間の人間性は、いわば二度脅かされる。一度目は、人間性人間性の名に値しないところにまで貶められるという仕方で、そして二度目は、本来の人間性であるべきものの粗悪で低劣な模造品が流通させられることによって、中性化され、無力化されるという仕方で、である。懐疑する省察において問われているのは、このような状況のうちにあって、思惟は果たして「わたしは一人の実存する人間である」という言明を打ち立てることができるかという問いであると言うこともできそうである。