イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

まなざしの訓練:世界の世界性をめぐる分析へ

 
 『存在と時間』の本論の内容に踏みこんでゆくことにしよう。ハイデッガーとともに最初に私たちが取り組むことになるのは、「世界とは何か?」という問いにほかならない。
 
 
 ハイデッガーがこの本で提唱した「世界内存在」という表現はよく知られているが、「世界内存在とは何ですか?」と聞かれてすぐに答えられる人は、おそらくは哲学を学んでいる人の中でもそれほど多くないものと思われる。これが「イデア」や「コギト・エルゴ・スム」であるならば、説明することのできる人はもっと多いことであろう。名前は有名なわりに中身のよく知られている概念、それが「世界内存在」なのである。
 
 
 実はこのことは、「世界内存在」という概念の中身に深く関係している。この表現は何か特別なことを言い表すために作られたのではなく、むしろ、私たちが生きている、この普通の日常の世界を言い表すために作られたものだからである。
 
 
 結論から先に言っておくと、「世界内存在」とは、「私たち人間(現存在)が、世界という場のうちで生きている」という事態を正確に指し示すための表現以外の何物でもない。
 
 
 「普通じゃん」を超えて、もはやバカリズムあるいはあたりまえ体操の域にすら達しているのではないかとも受け取られかねない「世界内存在」であるが、そういう反応も、あながち完全に間違いとも言い切れない。繰り返しにはなってしまうが、「私たちが世界のうちで存在しているということ」、それが「世界内存在」の内実なのである。ただし、そうは言っても二十世紀を代表する古典として残っている本の核となる概念なのであるから、当然のことながら、その含蓄は大変に深い。ハイデッガーがあえてこのような表現を持ち出すにいたった必然性を理解することが、私たちの読解の当面の目標になるだろう。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 世界内存在 イデア コギト・エルゴ・スム 現存在 バカリズム
 
 
 
 一般的に言って、先人たちが考案したのちに現在まで伝えられて残っている哲学の概念は、それが一見すると普通に見えれば見えるほど重要であり、そこから学ぶことも多いというのが通例であるように思われる。当たり前に見えるものにこそあえてこだわってみること、それが、哲学の認識において進歩する上で最も重要な原則の一つであることは確かである。
 
 
 目下のケースについて言うならば、哲学者たちは「世界」という現象のうちにいながら、そのことにこれまで気づくことなく、この現象の前を素通りし続けてきたというのが、ハイデッガーの主張するところである。
 
 
 彼によれば、このことは哲学者たちだけでなく、人間としての生を生きている私たち自身についても言えることである。私たちは世界のうちを生きており、私たちの生は「世界内存在すること」そのものによって可能になっているとも言えるのであるが、私たち自身は、そのことに気づくことがない。しかし、もしも「世界内存在」という体制がなかったならば、私たちが生きているこの普通の日常は、決して成り立たないことだろう。日常の日常性を成り立たせているもの、それが、「世界のもとでの存在」という実存カテゴリーに他ならない。
 
 
 さて、それでははたして世界とは、何なのだろうか。私たち自身が絶えず気づかずにいることに注意を向けなければならないのであるから、世界という現象を深く納得するためには、ふだん意識して見てはいないものを見てとろうとするような、ある種の「まなざしの訓練」とでも呼ぶべきものが必要になってくる。日常の日常性を深く見つめるまなざしのうちでこそ、世界の世界性は示される。具体的な日常の場面をたえず参照し続けながら、ハイデッガーとともに、「世界」という現象に挑んでみることにしよう。