イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

A子さんの配慮的気づかい

 
 ふだんは目立つことのない道具なるものが目立ったものとなってくるケースとして、ハイデッガーは「目立ってくること」「押しつけるようなありかた」「手に負えないこと」の三つを挙げている。ここではその内から「目立ってくること(利用できないこと)」について、具体的な場面に基づいて考えてみることにしよう。
 
 
 都内の某私立大学でイギリス文学を専攻している学部三年性のA子さんは、帰り道の夜の電車の中で、スマートフォンの電源が切れてしまったことに気がついた。今の機種を使いすぎたせいで電池の減りが早くなっていることはいつも何となく意識しているけれども、その日は読みかけのエミリー・ブロンテの方が気になって、そちらに気を取られていたのである。
 
 
 いつもなら、京王線新宿駅を出てから少し経ったくらいのところでお母さんにLINEをして、車で迎えに来てもらうところなのだが、それもできない。A子さん本人は歩いて帰ってもいいと思っているけれども、お母さんは夜道を一人で歩くのはやめなさいと、いつもしつこく言っている。面倒ではあるけれど、駅に着いたら公衆電話でも探して、そこでお母さんが最近買ったばかりのプリウスで、チワワのぽん太くん(2歳、♂)を助手席に乗せて迎えに来てくれるのを待つしかないようである。
 
 
 こんなことなら、モバイルバッテリーを持って来ればよかった。今どき、公衆電話なんてあるのだろうか。車が来るのを待っている間、どこで時間をつぶしたらいいだろう。こうなったら、待っている間に駅前のミスドでドーナツでも買って明日の朝ごはんにしようかとも思うけれど、ミスドって、この時間でもまだ空いているものなのだろうか……。
 
 
 
ハイデッガー エミリー・ブロンテ プリウス ミスド 嵐が丘 ダウントン・アビー
 
 
 
 スマートフォンの電源さえ切れなかったならば、A子さんは佳境に入った『嵐が丘』の世界に没頭したまま、電車に揺られて帰ることもできたことだろう。
 
 
 ところが、今やため息まじりのA子さんの頭に思い浮かぶのは、帰宅することをめぐる、さまざまな物事の細部である。スマホが使えないこと、夜道を一人では歩いて帰れないこと、おそらくは今ごろリビングで『新人刑事モース』を観ているであろうお母さんが来るまではいつもよりも時間がかかること、駅前のミスタードーナツの営業時間……。A子さんの頭の中ではこうした色々なことが行ったり来たりしながら、ぐるぐると回っているのである。
 
 
 道具はふだんはっきりと意識されていなくとも、モノと人とをつなぐ大きなつながりの中で使われている。A子さんにとって、帰宅途中のスマートフォンは、電車と駅と帰り道、自宅のお母さんとプリウス(それと、おでかけ好きのぽん太くん)を巻き込んだつながりの中で、はじめて道具としての役割を立派に果たしていたのである。スマートフォンを「利用できないこと」が、A子さんの周囲世界を形づくる連関を浮かび上がらせる。それとしてはっきり意識されることはなくとも、ここにはすでに「世界」なるものの存在を予感させるようなつながりが、姿を現しはじめているのである。
 
 
 道具はそれが道具である限りは、必ず適所全体性を形づくる連関のうちで使われている。ハイデッガーが道具の持っている、「世界内部的な存在者」としての性格を強調するのは、何よりも、この連関あってのことなのである。A子さんのスマートフォンの機種替えの時期が近づいていることは否定できなさそうであるが、買い替えの方は彼女自身に委ねることとして、私たちとしては、引き続き道具をめぐる分析を先に進めてゆくことにしよう。