イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

空と大気、闇と光:世界のうちで出会われる自然

 
 世界とは共同世界、あるいは公共世界でもあったけれども(前回の記事参照)、私たちは、この世界なるもののさらなる広がりを探ってみなければならない。
 
 
 論点:
 私たちが道具との関わりのうちで生きている「配慮的気づかい」の世界は、自然との関わりのうちで生きられる世界でもある。
 
 
 私たち現代人の多くは、自然のむき出しの力と向き合うことはほとんどなくなってきているけれども、それでも自然との関わりは、私たちの日常生活を作り上げている道具のうちにもまだ残っているといえる。そのことが最も見てとりやすいのは、天気に関わるさまざまな道具においてだろう。
 
 
 日常のことを振り返ってみよう。私たちはまず、TVやスマートフォンといった道具を通して、今日の天気に関する情報を手に入れる。たまには当たらないこともあるけれど、これらの道具を通して得られる情報は「今日は傘が必要かどうか」を判断するには十分な信頼性を備えているので、私たちは、自分で空模様を見て天気を予想する必要は必ずしもなくなってきている。
 
 
 雨が降る日には、当たり前の話ではあるが、私たちは傘をさす。傘は私たちの頭の上に広がって、ポタポタと音を立てながら、道を歩いている私たちを雨のしずくから守ってくれる。
 
 
 傘という道具が持っている形のうちに、天とは、時折は水のしずくを空高くから降らせるものであること、そのしずくは人間の体や衣服を濡らしてしまうものであるため、そこから身を守らなければならないこと、人間は、使うには片手を必要とするその道具を用いることによって、雨と呼ばれるそのしずくを防ぐことができることが告げられている。道具としての傘のうちには、人間が空と大気、雲と水との間に取り結ぶ関係のあり方が具現されていると言えるだろう。
 
 
 
 存在と時間
 
 
 
 「自然は、しかしここでは、わずかに目の前にあるものとしてもーまた自然力としてもー解されてはならない。森は造営林であり、山は石切り場であり、川は水力であって、風は『帆がはらむ』風なのである。」(『存在と時間』第15節より)
 
 
 『存在と時間』のうちで主として語られているのは、美しい自然でも、自然科学の対象として探求される自然でもない。それはまずもって、人間の営みのうちで向き合われる自然なのである。
 
 
 人間は自然を利用し、そこから糧を得、その脅威から身を守る。情報とコミュニケーションの錯綜のただ中を生きている現代の私たちには見えにくくなってきてはいるけれども、こうした自然との関わりは人間を人間たらしめている、最も人間らしい営みの一つであることは確かである。雨の日に傘をさすといった経験は、そのことを私たちに改めて思い起こさせるものであると言えるかもしれない。
 
 
 すでに何度か論じてきたことではあるけれども、日常の生と、その中での道具との関わりは、当たり前さの中に引き退いていって、目立たなくなってゆくという特徴をその本質からして持っている。従って、道具との関わりのうちで明かされているはずの「自然の姿」なるものもまた、日常の目からは見えなくなっていってしまうという宿命を抱えている。その姿を見えるようにするためには、現象学的分析が必要とされてくるゆえんである。
 
 
 記事の終わりに、人間の世界と自然との関わりについて考えさせてくれる、私たちにとって身近なもう一つの例を考えてみることにしたい。それは、電灯の例である。
 
 
 夜、高いところから見下ろすと、私たち人間が生きている街は静かに、しかしまばゆく光っている。そこで告げられているのは、夜とは本来は太陽の光の不在を意味する「闇の時間」にほかならないこと、しかし、人間という存在者にとっては、営みを続けるためにも常に何らかの光が必要であること、電灯という道具は、その光をこそ人間にもたらすものであること、等々である。私たちは物を見て、物のことを考えるけれども、物を見えるようにさせている光の方のことまでは考えない。道具としての電灯を分析することで見えてくるのは、ふだん忘れられている、この光なるものの存在にほかならないと言えるだろう。