イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

扉は、開けられなければならない:『存在と時間』における「現存在中心主義」

 
 そろそろ、真理論の仕上げに取りかかることとしたい。
 
 
 ① ハイデッガーは言う。道具を用いながら生活したり、ものを眺めやったりする経験において、そこで覆いをとって発見される世界内部的存在者は、第二次的な意味で「真」であるにすぎない。世界内部的存在者とはたとえば、文字を書くのに使われるペンや万年筆であり、街中の狭い路地であり、海である。こうした存在者たちはハイデッガーによれば、真理の現象においては根源的なものではなく、それゆえに「第二次的な意味で『真』である」と言われるのである。
 
 
 ② それでは、第一次的な意味で「真」であるものとは何か。言うまでもなく、世界内部的存在者を覆いをとって発見しつつある現存在、すなわち、人間がそれである。人間こそが、あるいは、世界内存在する人間が「覆いをとって発見する」というそのことが、第一次的な意味で「真」であるものに他ならないのだ。
 
 
 わたしが、目の前に限りなく広がっている海を眺めているとする。海は眺めているわたしという、比類のない存在者を通して、あるいは、「現存在であるところのわたし」が眺めていることを通して、はじめて見出されるのである。
 
 
 あるいは、今わたしの手に握られている万年筆は、虫や動物によっては決して万年筆「として」覆いをとって発見されることはありえず、この万年筆を万年筆「として」用いるわたしの存在を通してはじめて発見されつつ使用される、等々。『存在と時間』の真理論はかくして最終的に、覆いをとって発見することの基礎である、世界内存在する人間に行き着くのである。従ってここには、一種の徹底した「現存在中心主義」とでも呼ぶべき態度がある。この本のうちには、その後のハイデッガーの思索からは(その成果が否定されるわけでは決してなかったが、少なくとも主題としては)後景に退いてゆくような、「人間という比類のない存在者への、まなざしの極限的な集中」が見られると言ってもよいだろう。
 
 
 
ハイデッガー 世界内部的存在者 現存在 存在と時間 真理論
 
 
 一応、ハイデッガー自身の言葉を参考のために引いておく。
 
 
 「目くばりする、あるいは滞在しながら眺めやる配慮的な気づかいによって、世界内部的な存在者が覆いをとって発見される。この存在者が覆いをとって発見されたものとなる。その存在者は、第二次的な意味にあって『真』なのである。第一次的に『真』であるのは、すなわち覆いをとって発見しているのは現存在にほかならない。」(『存在と時間』第44節bより)
 
 
 繰り返しにはなってしまうが、ハイデッガーは『存在と時間』を書いた後に、このような「現存在中心主義」の立場からは距離を置くようになる。ただしそれは、この本におけるアプローチが間違っていたから、というのではない。むしろ、『存在と時間』の作業を終えた後になってはじめて、その作業を終えた後にしか出会うことのできない「途方もない事象」の方から転回することを強いられてしまったからなのであって、哲学の営みは、少なくとも一度はこの「人間への、まなざしの極限的な集中」の時期をくぐり抜けておく必要があるのではないか。
 
 
 人間が人間であるということの意味は、日常的な生のあり方においてはさしあたり、覆い隠されてしまっている。比類のない存在者であるはずの人間は、自らの比類のなさを、日常性という分厚いヴェールのうちで見失ってしまう。実存論的分析論が達成しようと努めるのは、人間という存在者を特徴づけているところのこの比類のなさを、思索のうちで視界へともたらすことに他ならない。
 
 
 現存在、すなわち人間であるところのわたしは、「覆いをとって発見する」。すなわち、使用し、行動し、思考する中で、出会い、見出し、知るのである。生きるとは、常に次の扉を開け続けることである。人間であるところのわたしは、その先に何が待っていようとも、決意して次の扉を開けなければならないのであって、このことこそが、「現存在は真理のうちにある」というテーゼから導かれてくる、実践上の決定的な帰結にほかならない。
 
 
 「人間は、現実の世界のうちへと目覚めなければならない。」ここから、『存在と時間』が「最も根源的な真理」と呼ぶものの領域がただちに開かれてくる。最も根源的な真理とはまさしく、実存の真理とでも呼ぶべきものにほかならないのではないか。私たちは真理論の読解を締めくくるにあたって、最後にこの点を見ておくこととしたい。