イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

〈運命〉の次元、あるいは、悲劇的存在としての人間について

 
 情態性と被投性の概念について、もう少し掘り下げて考えておくことにしよう。
 
 
 私たちは自分自身がその時に感じている気分について、あまり注意を払わないまま済ましてしまうことがある。それどころか、嫌な気分や不機嫌な気分を感じている時には、何とかしてそれを押し込めるようにしつつ、そんな気分など存在しないかのように振る舞うことも多々あると言ってよいだろう。
 
 
 このような気分の無視や、気分に対する抵抗は生きてゆく上で必要不可欠なものであり、場合によっては望ましいものですらあることは言うまでもない。しかし、ここで注目しておきたいのは、そのような無視や抵抗のすべてにも関わらず、気分というものは人間に取り憑き、苦しめることを決してやめはしないという事実の方である。
 
 
 気分は人間のその時々の存在を、裂け開くようにして開示する。この開示は極めて深いところから、人間の世界内存在そのものから立ちのぼってくるようにして行われるので、理論的な思考といえども、気分の持つこの裂け開くような力を完全に押しとどめることはできない。気分は執拗に、奥深いところから人間に襲いかかり続けるのだ。
 
 
 このことの危険が最大度に高まるのは、ハイデッガーが根本的情態性として挙げている、不安の場合である。不安において人間は、自分がいったい何を不安に感じているのかが正確にはわからない。それにも関わらず、人間には自分がもう「終わり」で、決定的な破滅が近づいているという予感だけが高まってゆく。気分なるものはこのように、最悪の場合には、人間を自分自身の崩壊と終焉に向かって引きずり込んでゆくということもありうるのである。
 
 
 
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 気分という現象を指し示すためにハイデッガーが用いた「情態性 Befindlichkeit」という語は、おそらくギリシア語の「パトス」をハイデッガーの流儀で言い換えたものであろうとの指摘が、すでに幾人かの研究者たちによってなされている。この指摘の正しさは、ほぼ確定の事実であるとしておいても問題ないかと思われるが、いずれにせよ、現存在としての人間の〈現〉を構成する契機の一つであるところの情態性が、悲劇的な存在としての人間のあり方を端的に証しするものであることは確かである。
 
 
 「わたしを母の胎からこの世へと引きずり出したかの日は、呪われよ。」人間は、自分自身が世界内存在しなければならないということ、そして、自分自身の〈現〉、破滅的なものでもありうるその〈現〉のうちに避けられないしかたで投げ込まれているという事実だけは、決して動かすことができない。被投性の概念が最終的に指し示すのは、人間の生を取り巻き、引き回し、襲いかかってくる、〈運命〉の次元そのものである。
 
 
 ひとは、運命にだけは決して抗うことができない。『存在と時間』が出版当時、かくも多くの人々に衝撃を与えたのは、一つにはこの本が、古代ギリシア人たちが全実存をもって生き抜いていたであろうその存在感覚を、現代の哲学の言葉づかいのうちで蘇らせてしまったように感じられたからである。この本と共に人間は実存をふたたび経験するのだが、その実存とはギリシア人たちが、哲学という未曾有の営みを開始したあの比類ない人々が、そのパトスの全重量をもって蒙った一つの受苦のごときものであったのだ。ハイデッガーの内存在論の読解を通して浮かび上がってくるのはこうして、人間の生それ自身であるところの〈運命〉という問題圏にほかならないと言うこともできそうである。