イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

どれだけ逃げても逃げ切れない:被投性の概念について

 
 論点:
 情態性がむき出しにするのは、すでに存在してしまっており、存在しなければならないという、人間の裸形の事実性にほかならない。
 
 
 良い気分、あるいは上機嫌の気分を感じている時には、ひとはわざわざ「わたしはなぜ存在しなければならないのか」と自問したりはしないだろう。哲学的にも、それから実人生の上でも重大であるのはそれとは反対の気分、すなわち、重苦しい気分の方である。
 
 
 すべてが嫌になってしまうような、憂鬱な気分というものがある。何もかも上手くゆかず、自分自身の存在価値にも全く自信が持てなくなり、なんだか体調さえも悪い気がしてくる……このような負のスパイラルにはまり込んだことのない人は、ほとんどいないのではないだろうか。
 
 
 「昨日までは調子も悪くなかったはずなのに、なぜこんなことになってしまったのか。」気分というものの恐ろしいところは、いったん襲われてしまったら終わりという側面のあるところである。こんなことになるならば、ああしなければよかった。あるいは、こうなるとわかっていれば、もっと別の道もあったはずなのに。しかし、もう遅いのである。もう遅いということを何よりも、わたしを襲う気分そのものが告げている。
 
 
 重苦しい気分はこのように、それを感じるわたしの実存を、従ってまたわたしの〈現〉を開示するだけでなく、わたしが自分自身の〈現〉に否応なく委ねられているという根源的な事実をも開示する。よく言われるように、「自分からは逃げられない」のだ。この「逃げられない」という事実、現存在としての人間が「存在し、存在しなければならないこと」を、ハイデッガーは被投性と名づける。気分はその根源においては、人間が被投的な存在であるという事実をもえぐり出さずにはおかないのである。
 
 
 
情態性 現存在 ハイデッガー 被投性 世界内存在 実存 ヴァーチャル・オリエンテッド VR ごきげんよう 憂鬱
 
 
 
 「この存在性格、つまり『現存在が在ること』を、じぶんの〈現〉のうちへと現存在という存在者が投げだされていることと名づけよう。現存在はしかも、世界内存在として〈現〉であるというしかたで、投げだされているのだ。被投性という表現は、委ねられているという事実性を暗示するはずである。」(『存在と時間』第29節より)
 
 
 「投げだされている」というのは、実にうまい表現である。同時に、この表現は人間に対して、世界内存在するということの実存論的な「いかんともしがたさ」について教えるところも大であると言えるのではないか。
 
 
 人生を自分の好きなように設計したいというのは多かれ少なかれ、誰しもが願わずにはいないところである。この願望をとどまることなく突き詰めてゆくと、容姿まで含めて、自分自身をアバターのように作り直すとか、あるいはVRで生きてゆくならば人間にはもう現実世界はいらないのだとか、そういった、多少なりともヴァーチャル・オリエンテッドな価値観に行き着くであろう。
 
 
 しかしながら、これも誰もがうすうす気づいていることではあるが、被投性という事実は、究極的にはいかんともしようがないのである。「人間は自分自身の〈現〉であり、〈現〉であらねばならない」のだ。VR的な発想は、現実を人間の望み通りに創造してしまうことによって、被投性という人間の運命に対して自己決定権を対置しようとするのだが、この闘いは言うなれば、永遠の負け戦であることが最初から定められているような闘いである。人間がいくら必死になって現実から逃げようとしても、最終的には現実の方が向こうからやって来て、「ごきげんよう」と我々に挨拶してくることであろう。
 
 
 そういうわけで、被投性という概念は積極的なものであるというよりも、憂鬱ではあるが認めないわけにはゆかない現実の現実性について、根底から納得するためには役に立たないわけでもないといった類のものである。今のこの人生をすぐに変えてくれるわけではないけれども、下手に動くよりも、諦めるところは諦めてしまうことによってかえって心の平安が得られるというケースも、この人生には少なからずありそうである。聖人になるための条件の一つは、常人には及ばないようなレベルで根底からすべてを諦め尽くすことであるという事実もまた、参考としてここに付け加えておいてもよいかもしれない。