イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

気分との向き合い方:私たちが音楽を必要とすることの、実存論的な背景について

 
 情態性について論じ終えるにあたって付け加えておかなければならないのは、ハイデッガーは気分なるものの押しとどめがたい執拗さについて語りつつも、人間がそれに対して抵抗してゆく可能性についても指摘しているという事実である。
 
 
 「現存在は事実的に、知識と意志とをもって気分の主人となりえ、主人となるべきであり、主人とならねばならない。」(『存在と時間』第29節)
 
 
 おそらく、賢明な人間においては気分ではなく認識が生の主導権を握り、生を導いてゆくのであろう。しかし、その場合であってもその人は、気分の持つ根源的な力が押しとどめがたいものであることを、決して忘れてはいないことだろう。
 
 
 ハイデッガーと共にもう一つ付け加えておくべきは、私たちが気分の主人となることができるとしても、それは気分を無視することによってではなく、むしろ別の気分、あるいは反対の気分によって元々の気分を制することによってであるという論点にほかならない。
 
 
 重苦しい気分に打ち勝つためには、活力と慰めを呼び覚ます気分を喚起するしかない。重苦しい気分は、もう何もしたくない、なんの気力も湧いてこないと、私たちを憂鬱な負のスパイラルのうちに落とし込もうとしてくる。
 
 
 それに対抗するためには、私たちは別の気分、たとえば勇壮な気分でもって自分を駆り立ててゆく必要がある。すなわち、何の得にもならないこんな気分の奴隷になっているなんて、これではあまりにも惨めというものではないのか、本当は逆なのであって、自分の魂の内側にこんこんと湧き上がってくるこの勇気の方こそが、憂鬱を徹底的に打ち負かし、目の前の逆境など気にかけることなく、生という不断の闘争を続行してゆくべきではないのか……。ここまでゆくとなれば、その人はもはや現代人の枠を超えた猛者であるというほかないであろうが、ここまで極端ではないにしても、「気分とは闘いである」という命題は、ストア派の賢人ならずとも念頭に入れておいてよいのではないかと思われる。
 
 
 
 ハイデッガー 情態性 気分 ストア派 ポップ・ソング 現存在
 
 
 
 気分に対抗するためには、別の気分をもってするしかない。おそらくはここにこそ、現代を生きる人間にとって、音楽を聴くことがかくも重要な行為になっていることの実存論的な背景がある。
 
 
 ポップ・ソングとは本質的に言って、与えられた一つの状況に対する解答である。すなわち、いま本当に何もする気が起きないのだがどうすればいいのかとか、手がかりが一つもないあの人に、どうにかしてこの想いを知ってもらいたいとか、あるいは、たとえ何があろうとも、私にこんななめたマネをしてのけたあの男だけは絶対にぶちのめすといったように、一つのポップ・ソングは必ず、ある特定の実存の状況に応答するようにして作られている。リスナーはその曲を聴きながら、彼あるいは彼女がいま置かれている状況においては、いま何を感じるべきであるのか、どんな気分を携えて、どんな風に状況を切り抜けてゆくべきなのかを、理屈を超えて、実存の奥深いところから学ぶのである。
 
 
 そういうわけで、聴き続けて十分に親しんだ曲のストックがたまってゆけばゆくほど、立ち向える問題のバリエーションもそれだけ増えてゆく。ストレス過多とメンタル負荷過剰に苦しむこの現代にあって、音楽とはまことに尽きることのない喜びの源泉であるだけでなく、実践的な知恵の宝庫でもあると言えるのである。ともあれ、以上をもって情態性をめぐる議論については一通り論じ終えたということにして、私たちとしては、現存在の〈現〉を構成する第二の契機の方に移ることにしよう。