論点:
他者の言葉の不可解性を閑却するならば、他者は、認識の主体であるわたしの元から引き退いてゆくであろう。
これは、哲学においても実人生においても非常に重要な論点なのではないかと思う。そして、この論点はまた、存在の超絶という理念に関して無視できない問題を提起するものでもあるものと思われる。
すでに繰り返し論じてきているように、他者の存在は、認識の主体であるわたしを超絶している。しかし、この超絶はその本質から言って、わたしの意識には現れてこないものであるがゆえに、不可避的にわたしの意識を超絶として触発してくるものであるとは限らない。
むしろ、ほとんどの場合には、超絶は忘れ去られ、それに対して注意が向けられることさえも稀なのではないだろうか。超絶は、超絶の事実に対してその尊厳を認めることのない思考からは、離れ去ってゆく。超絶の根本動向には現れないという仕方で現れることと、現れることなく隠れることとが共に属しているのである。
「ある」がわたしを超絶しているというこの事実のうちには、わたしを超絶する存在の尊厳が示されているのと同時に、存在の根本動向には、現れることよりも隠れることの方がより根源的な動向として属しているのではないかと私たちを予感させるものもまた含まれている。
後年のハイデッガーの思索の関心は、このような動向に向けられていた。存在を存在の超絶として、「ある」をあることの超絶として捉えようとする筆者の試みは、そうした彼の問いかけをさらに先鋭化させてゆくことを目指す企てでもある。現れることには隠れることが先立っているが、隠れることには超絶することがさらに先立っている。筆者が哲学において、存在問題に関して何らかの貢献をなしうるとすれば、それはまずもって、超絶を超絶として名指すという一点に尽きるのではないかと思われる。
言葉のうちには超絶のしるしが刻まれているけれども、そのしるしは常にたやすく忘れ去られてしまう。ひとは、現れてくる意味作用の明晰さには目を奪われずにはいないけれども、決して現れてくることのない超絶の尊厳の方にはほとんど目を向けることがない。言葉に関する省察は、意味作用そのものに先立ちながら、意味作用そのものを隠れたところから基礎づけている、この見えざる根源の方へと遡ってゆくのでなければならない。